若い頃から波乱万丈、またシオニスト強硬派だったベギン

シオニズム運動家ゼエブ・ドヴの息子として生まれたメナヘム・ベギン。自らも16歳のときに、シオニズム運動に参加し、そうした組織にも所属していた。

1939年にドイツがポーランドに侵攻した際、パレスティナ入りを目指し、妻アリザとともにリトアニアに脱出。しかし、シオニストであったベギンは、ソ連の治安当局にイギリスのスパイ嫌疑をかけられ逮捕されてしまう。

そして、シベリアの強制収容所へと送られてしまうのだが、ドイツとの戦いに参加することを条件に釈放され、こうして軍に入隊。こんどは中東に送られることに…。

と、ここまででも、かなりの波乱万丈であるが、その後もやはりゴタゴタが続くのであった。

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シオニストであった彼は、パレスティナの地に、なんとしてもイスラエル国家を建国させたかった。そのためには、その地に昔から住んでいる多くのアラブ人を排斥する必要があったのだ。

1943年の除隊後、彼は「イルグン・ツヴァイ・レウミ」(民族軍事機構)とよばれる、武装ゲリラ組織を再編成し、その3代目司令官となった。

力(権力、武力)を手に入れた彼は、ありとあらゆる手段をもちいて、アラブ人に対する破壊活動を続けていった。彼らをパレスティナの外へ追いやるためにである。

46年には、「キング・デービッド・ホテル爆破事件」、48年4月には254人が虐殺された「ディル・ヤシーン村事件」(※)など、一連の破壊活動はイスラエルが建国されるまで続けられた。

こうして、イスラエルは1948年5月に建国されたが、同時にアラブ・イスラエル紛争とパレスティナ難民という、新たな問題をも発生させてしまうのである。

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