「マンデラ, N. R(1918~)」(南アフリカ共和国の黒人解放運動指導者)

平和賞(1993年 受賞)

【経歴】

1918年7月18日南アフリカのトランスカイ地方の大族長の家で誕生。フォートヘア・カレッジ、ウィッツウォーターズランド大学で文学、法学を学ぶ。44年ANC(アフリカ民族会議)に参加、青年同盟を組織。52年その副議長に就任。また非白人として初めて弁護士を開業。56年国家反逆罪容疑で逮捕される。61年無罪判決。ANCの武闘部門「民族の槍」を組織、地下に潜り活動。62年再び治安警察に逮捕投獄される。64年終身刑宣告。90年デクラーク政権により釈放され、同年3月ANC副議長就任。91年ANC議長就任。93年ノーベル平和賞受賞。94年南アフリカ共和国大統領に就任。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

「新しい政治秩序へ移行するための原則をもって、デクラーク大統領とともに、南アフリカの民主化を推進してきた」その功績により、1993年ノーベル平和賞を受賞。

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★〔その業績や活動〕

南アフリカでは、1991年まで「アパルトヘイト」(人種隔離政策)が行われていた。

この「白人優先の黒人差別」政策に対して、すべての黒人が黙っていたわけではない。差別を廃止し、白人と同等の権利を要求する運動も、黒人によって行われてきたのだ。

その中でも、本格的な黒人解放運動を行ってきたのが、「ANC」(アフリカ民族会議)とよばれる黒人組織だった。

ネルソン・マンデラは、この「ANC」に所属しており、また非白人としては初めて弁護士を開業した人物としても知られていた。

その彼が、本格的な反アパルトヘイト活動を開始したのだ。それは、南アフリカにおける、黒人にとっての暗黒時代に灯された一つの光だった。

しかし、活動を続けていくなかで、政府側から「国家反逆罪」として逮捕・監禁されることもあった(56年)。その5年後には無罪判決(61年)が下りたが、彼は引き続き黒人の解放運動を続けていった。

「ANC」の武闘部門として「民族の槍」を組織し、地下活動を行ったりもした。

しかし、またもや治安警察に逮捕・投獄(62年)されてしまう。そして、同じく「反逆罪」として、このときには終身刑を宣告されてしまうのである(64年)。

彼は、獄中に身を置きながらも、「ANC(活動)の合法化」や「共に逮捕されたANC幹部の釈放」、そして「アパルトヘイト政策の廃止」などを、懸命に訴え続けていったのだ。

そして、60年代、70年代と、時は過ぎていき、80年代も過ぎ去ろうとしていた。

この時代、国際社会は、アパルトヘイト政策を厳しく非難。人種差別を続けている政権に対しては、経済的援助をおこなわない方針(経済制裁)なども明らかにした。

これによって、国際的にも経済的にも孤立していった、南アフリカのボタ大統領に代わって、国民党のデクラークが新しく大統領に就任(89年)。彼はアパルトヘイトの撤廃を掲げ、黒人との対話も始めた。

デクラーク政権は、マンデラらを釈放し(90年2月)、さらには「ANC」を始めとする黒人組織の合法化も認めるなど、大胆な改革に踏み切った。

釈放されたマンデラは、デクラーク大統領とともに、南アフリカの民主化を推進していったのである。それも、支配体制をとっていた白人との全面衝突を避けながらである。

そして、ついにアパルトヘイト制度をすべて撤廃することに成功。こうして、南アフリカ共和国は民主主義へと生まれ変わり、しだいに国際社会の舞台にも参加すようになっていった。1992年にはオリンピックへの参加が認められ、翌93年には経済制裁も解除されたのだった。

デクラークとマンデラは、南アフリカの民主化を推進してきた功績により、共同でノーベル平和賞を受賞した。

94年4月には、南アフリカで史上初の総選挙がおこなわれ、その結果、史上初の黒人大統領が生まれた。マンデラ大統領の誕生である。そして副大統領は、デクラークだった。

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