「ベギン, M.(1913~92)」(イスラエルの政治家)

平和賞(1978年 受賞)

【経歴】

1913年8月16日当時ポーランド領であったブレストに生まれる。ワルシャワ大学卒業後、ベタル(シオニズム組織)のポーランド支部長として活動。40年ソ連治安当局からイギリスのスパイ容疑で逮捕されシベリアに送られる。43年「イルグン・ツヴァイ・レウミ」を再編成し3代目司令官となる。48年イスラエル独立後は組織を解散、「ヘルート」(自由党)を創立し党首となる。49年国会議員。73年右翼連合リクードを結成、党首となる。77年5月首相に就任。78年エジプトと和平交渉を達成、これでノーベル平和賞受賞。79年エジプトとの平和条約に調印。81年首相に再選。83年辞意表明、以後執筆活動に専念。92年3月9日死去(享年79歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

エジプトと初めて和平交渉を開始したことで、その後の中東の緊張緩和に寄与した功績により、エジプトのサダト大統領とともに、1978年ノーベル平和賞を受賞。

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★〔その業績や活動〕

1978年にイスラエルのメナヘム・ベギン大統領にノーベル平和賞が贈られた理由は、それまでの仇敵であったエジプトのサダト大統領と和平交渉をおこない、中東における平和確立の枠組みとエジプト・イスラエル間の平和条約締結の枠組みに署名した、その枠組二協定に至った功績が認められたものであった。サダト大統領との共同受賞だった。

和平交渉の過程では話し合いが難航するところもあったが、当時のアメリカ・カーター大統領の計らいで、キャンプ・デービッドの大統領別荘で話し合いが行われたりもした。このときの、恒久平和へ向けた2国間の合意を「キャンプ・デービッド合意」と呼ぶ。

実は、このノーベル平和賞には、受賞した2人に対して、今後とも中東和平の具体的な解決に向けて努力していって欲しいといった激励の意味も込められていたという。

ところが、合意していたはずの12月内の平和条約締結期限が守られなかったことに加え、その後も、80年の東エルサレム併合、81年6月のイラク原子炉爆破、12月のゴラン高原併合、82年6月のレバノン侵攻、またヨルダン川西岸入植など、和平の枠組みからは程遠い状況となってしまうのだ。

そして83年、彼は政界から引退し、執筆活動に専念…。

サダト大統領のほうも、大半のアラブ諸国から外交関係を絶たれ(裏切り者扱いを受け)、厳しい状況に置かれることに。そして81年10月6日、軍事パレードの観閲中に、イスラム原理主義者(ジハード団)からの銃撃を受け、殺害されてしまうのである。

★〔「これだけは!」キーワード〕

【キャンプ・デービッド合意】

1978年、アメリカのカーター大統領が立役者となって、イスラエル・ベギン首相と、エジプト・サダト大統領の間を仲介して実施した和平交渉の結果、両国が和平で合意に至った、歴史的な中東和平調停。

アメリカ大統領別荘「キャンプ・デービッド」で行われたことから、「キャンプ・デービッド合意」と呼ばれている。

ちなみに、当の(立役者の)カーター大統領も、同年のノーベル平和賞の候補になっていたらしい。ところが、推薦状が受け付け期限日に届かなかったことで、惜しくも選考から漏れてしまったのだという。

【サダト・エジプト大統領】

1970年、エジプトのナセルの死にともない大統領に就任。71年国内の左派を一掃。73年アメリカ主導の中東和平計画に沿い、中東和平の道を模索。新米政策を推進。

77年1月イスラエルを訪問、クネセットで演説し、中東和平を提案。78年のキャンプ・デービッド会談で、79年エジプト・イスラエル和平条約の調印に踏み切る。

この功績によりベギンとともに78年ノーベル平和賞受賞。80年イスラエルとの外交を樹立するが、翌年81年10月暗殺される。

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