「天才とは何か?」そして「天才と凡才とは、どこが違うのか?」
アインシュタインやパスツール、またキュリー夫人など、過去の偉人の類いまれな発想や偉大な業績について読み進めていくうちに、そうした疑問がわきあがってくる。
辞書的には、「天才とは、生まれつき才能のすぐれた人」ということになっている。しかし実際は、努力の結果「天才」と呼ばれるようになった人は多い。
あの発明王エジソンも、「天才とは、1%のインスピレーション(霊感)と、99%のパースピレーション(発汗)の結果である」と語っていた。
つまり、天才と呼ばれるようになるには、1%の閃きに対して、残りの99%は(額に汗かく)努力によって決まる、ということである。
ノーベル賞の受賞者たちも、世間からは「天才」として評価されている。当の本人たちは、謙遜で「そんなことはない」という。
たしかに、辞書的な「生まれつき具わっている、類いまれな才能」という、本来の意味での「天才」ばかりが、ノーベル賞を受賞しているわけではないだろう。
受賞者の多くは、努力の人なのである。また決して、全てのことに優れているわけではなく、たった一つ、自分の専門分野の中で飛びぬけて秀でているものを持っているという、そういう人が努力を積み重ねていった結果として、授賞しているのである。
あのアインシュタインも、数学の分野では非常に抜きんでていたが、語学など他の科目では平均以下で、落第することも多かったという。エジソンの子供時代にしても、むしろ冴えないほうだったらしい。偉人において、そうした例は山ほどあるだろう。
ところで、その「たった一つ」の専門分野というのが、人から与えられたものではなく、自分から好きで飛び込んでいった世界であれば、「努力」は「苦」とはならず「楽」(ワクワクした気持ち)にも転化でき、その結果「努力」に「持続力」が添えられることになる。
だから、天才と呼ばれる人は、自分が活躍できる「場」(環境)をよく心得ていると言えよう。そして「自分が没頭できるほど好きなもの、熱中できる分野」、それは人それぞれ固有の「遺伝」によっても決められている。
人の「好奇心」の度合いも遺伝によるのだ。すると、「天才は、遺伝と環境と、そして努力の賜物である」ということなのか?では、ノーベル賞の各分野における受賞者(天才)たちの、それらの業績を眺めつつ、「天才」とは何かについても考えていくことにしよう。