平和賞(1989年 受賞)
【経歴】
1935年7月6日チベット東北部タクツェル村の農家に生まれる。39年先代ダライ・ラマ13世の転生者と認められ、4才で14世ダライ・ラマに即位。15才で祭政の最高位に就く。その後チベットの中立を守り、中国と対立。51年平和解放のチベット協定を結ぶ。53年中国仏教協会名誉会長、59年3月住民10万人とともに、ヒマラヤを越えインドへ亡命、亡命政府を樹立。79年チベット解放運動を指導。89年ノーベル平和賞受賞。
【受賞理由となった業績や活動】
★〔受賞理由〕
無抵抗平和主義の独立運動をチベット全住民に呼びかけ、チベットの解放運動を指導、少数民族としての権利獲得を訴えてきたことで、89年ノーベル平和賞受賞。
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★〔その業績や活動〕
「ダライ・ラマ」というのは、チベット・ラマ教(チベット仏教の一派)でいう「法王」のことを指した言葉である(言葉自体の意味は「智慧の海」というモンゴル語)。
その初代ダライ・ラマは、15世紀の高僧ゲドゥン・ドゥプ師。その彼から14世にあたるのが、1935年7月6日に生まれた、現在のダライ・ラマということになる。
本名は、テンジン・ギャツォ(丹増嘉措;Ten-zin Cyatso)。即位は、首都ラサにあるポタラ宮殿で1940年1月14日、彼が4才のときに行われた。
そして祭政(政治と宗教)の最高位に就いたのが1950年、彼が15才のときだった。
実は、ダライ・ラマが最高位に就いた、この1950年という年は、チベットとダライ・ラマにとって、それから後の大きな試練の幕開けともなる年だったのである。
「チベットは元の時代から中国の一部だったのだ!」
チベットの自治は、蒋介石の中国国民党からは認められていたのに、1947年に毛沢東の共産党が中国の政権を握るようになると、それが認められないと言い出した。
そうして1950年に、中国人民解放軍は圧倒的な軍事力をもって、チベットに侵攻を開始してきたのだ。ダライ・ラマはチベットの法王として、これに抵抗したが失敗。
その後、中国の指導者らと和平交渉を重ねていき、中国も彼にチベットの権限を委任する形となった。平和開放のチベット協定を結んだわけである。
ところが1959年に、ダライ・ラマがチベット駐留の中国軍によって軟禁・抑留されるという事件が起こったため、反中国のラマ教僧侶や貴族、また数万もの一般民衆が、中国に対しての大規模な反乱事件(抵抗運動)を引き起こしたのだ。
3月には独立宣言もなされたのだが、すべて中国軍によって徹底的に鎮圧されてしまった。
★〔亡命先から「非暴力の抵抗運動」を呼びかける〕
こうして、ダライ・ラマは、チベット住民10万人と共に、ヒマラヤを越えて、インドへの亡命に踏み切ったのである。
そして、当時のインド・ネール首相の協力により、インド北部のヒマチャルブラデシ州にある「ダラムサラ」というところに、チベット亡命政府を樹立したのであった。
チベット侵攻以来、中国人民解放軍によって虐殺されたチベット人犠牲者の数は、120万人にも上る(破壊された仏教寺院は6000箇所以上)といわれている。
ダライ・ラマは亡命先から、チベット民衆に向けて「非暴力の抵抗運動」を呼びかけた。世界各地を巡り、チベット問題を国際世論に訴え続けることもしていった。
また中国との平和共存による道を模索するようにもなった。チベット自治政府の樹立については、その宗教や伝統文化が尊重されるのなら、外交権は中国に委ねてもいい、といった穏健路線にも傾いたのである。
「独立を主張しているだけでは、いつか中国の怒りを爆発させ、圧倒的な力をもつ軍によって、民族が抹殺されてしまうかもしれない」そのような憂慮があったのだ。
こうした彼の非暴力闘争(無抵抗平和主義)は、国際的にも大きな支持を集め、また評価を受けることともなり、1989年にノーベル平和賞を受賞したのである。
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