「佐藤 栄作(1901~75)」(1974年 平和賞)

1901年山口県生まれ。東京帝大法学部卒業。鉄道省入省、運輸次官。48年吉田内閣官房長官。49年衆院議員に初当選、自由党幹事長。55年無所属(自民党結成に不参加)。58年岸内閣蔵相。61年池田内閣通産相。64年首相。74年ノーベル平和賞受賞。75年没。

【受賞理由となった業績や活動】

(佐藤栄作のノーベル平和賞受賞に至る背景は?)

1974年12月10日、ノルウェーの首都オスロで、佐藤栄作にノーベル平和賞が贈られた。受賞の理由として、「平和裏に沖縄返還を実現した功績」が挙げられたが、とくに、その沖縄返還の基盤となった「核兵器を造らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則の意義が強調されたという。

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戦後のワシントン講和条約(1951年)によって、沖縄は日本から切り離され、アメリカにその施政権が与えられていた。つまり、アメリカに取り上げられたようなものである。

もちろんのこと、沖縄をはじめ本土からも、沖縄の早期返還を望む声は高まっていた。ところが当時は、極東の緊張もまた高まっていたため、(早期に)沖縄が返還される見込みは、かなり低いと見られていたのだ。

それが、1969年11月に開かれた日米首脳会談(ニクソン大統領と佐藤首相)のとき、沖縄が返還されることに決まったのである。

記念すべき「沖縄が復帰を果たした日」、それは1972年5月15日のことだった。

(「沖縄の返還」に政治生命をかける)

この1974年のノーベル平和賞受賞から遡ること、1965年8月19日、初めて沖縄を訪れた佐藤栄作は、那覇空港で次のように声明文を読み上げた。

「沖縄が本土から分かれて20年、私たち国民は沖縄90万人の皆さんのことを片時たりとも忘れたことはありません。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦争が終わっていないことをよく承知しております」

しかし当時の情勢では、沖縄返還が実現する可能性はかなり低いように感じられた。

アメリカにとっては、朝鮮半島情勢のこともあり、沖縄は「極東の要石」とも位置づけられていたのだ。つまり、東アジアの戦略拠点とされていたわけである。

このように、誰もが不可能に思えた「早期の沖縄返還」を実現するべく、佐藤栄作は先の声明を出発点とし、その後粘り強くアメリカとの返還交渉を続けていったのである。もちろん、アメリカも簡単にはゆずらない。

「極東の安全をどう考えるのか!」1967年11月、ワシントンでの首脳会談で、当時のジョンソン大統領は、日本側にそう問いかけてきたという。当時の極東情勢については、ことに厳しかったことだろう。

それでも、佐藤はひるまず、国民の気持ちを率直に伝えることに徹したという。

「日本は日米安保条約を堅持し、防衛力を強化する。憲法上、軍事協力はできないが、経済協力の面で極東の安全に寄与したい」極東の安全については、そのように答えた。

このときの首脳会談で、ジョンソン大統領は沖縄の返還については明言を避けたが、小笠原の早期返還については合意がなされた。

さらに大統領は、沖縄の早期返還を求める日本国民の要望は充分理解しているとし、その返還についても、今後とも前向きに日米共同で検討していく用意があるとした。

一方の佐藤首相はその後も、返還された場合の「沖縄基地の態様」についても触れながら、あくまで「非核三原則」を貫きながら、アメリカとの返還交渉を続けていった、とされている。
そして、1969年の11月、新しく就任したニクソン大統領との首脳会談のとき、それまでの4年にわたる努力が実り、ようやく沖縄が返還されることが正式に決まったのである。

(※ただし、このときの首脳会談では、有事の際には核の再持ち込みなどを事実上認める「密約」があったのではないかという、いわゆる「密約疑惑」も浮上している)

〔まさに「政治生命」を燃焼し尽くした一生〕

1901年、山口県の造り酒屋に生まれる。東京帝大法学部を卒業すると同時に、鉄道省(後の運輸省)に入省。地方勤務を経て、運輸次官となるが、その後片山内閣が総辞職した際、運輸次官を辞任する。

48年10月の第二次吉田内閣の発足に際して官房長官に任命される。翌49年1月、48歳のときの総選挙で衆院議員に初当選、同年2月の第三次吉田内閣の発足時には自由党の幹事長を任される。

その後、岸内閣のときは蔵相(58年)、池田内閣のときは通産相(61年)を務め、64年には首相に就任。佐藤内閣は7年8ヶ月に及ぶ長期政権となった。

そして、ノーベル賞受賞から半年経った1975年5月、74歳になった佐藤は文字通り、燃え尽きるようにして逝く。くも膜下出血だった。

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