文学賞(1970年 受賞)
【経歴】
1918年12月11日ロシアのカストフ地方に生まれる。41年ロストフ大学物理・数学科を卒業。同年独ソ戦勃発と同時に召集され、士官教育を受け、砲兵中隊長となる。軍務の傍ら、短編を執筆。45年スターリン批判により逮捕され8年間服役する。62年『イワン・デニーソビッチの一日」を発表。その後も「マトリョーナの家」、「クレチェトフカ駅の出来事」、「公共のためには」、「胴巻のザハール」などを次々と発表。69年フランス最優秀外国文学賞を受賞。70年ノーベル文学賞受賞。74年2月西ドイツへ強制追放される。76年アメリカ・バーモント州に移住。90年8月ソ連市民権回復。94年帰国。
【受賞理由となった業績や活動】
★〔受賞理由〕
精神の領域や社会意識の展開のうえに、望ましい時期に、かつ効果的に影響を与えるような作品を描き続けた功績に対して、1970年ノーベル文学賞を受賞。
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★〔その業績や活動〕
アレクサンドル・ソルジェニーツィンは、次のように語っていた。「私にはロシアの運命を描くことが一番重要であり、一番興味がある」と。
このように、彼はロシア文学の伝統に立ちながらも、一方ではロシア国民の社会意識の推移にも照準を当てて、それを効果的に作品として描き出していった。
ノーベル文学賞が与えられた理由も、まさにそうした点にあったのだ。では、彼の著作のうち、どんな作品が話題をさらっていったのだろうか?
まずは1962年、「イワン・デニーソビッチの一日」を発表すると、ソ連内外から高い評価を受けるようになる。世界的にも大きな反響を呼んだのだった。
内容は、スターリン時代の収容所を舞台に、政治犯の一日を(自らの体験を踏まえて)リアリスティックに描いたもの。
翌年も、「マトリョーナの家」、「クレチェトフカ駅の出来事」、「公共のためには」などを次々と発表。影響力のある作家として、多くの人々に注目されるようになる。
しかし、彼の書く作品は、当時のソ連の体制側から見ると、あまりにも批判的なものが目立っていた。そのため、彼は当局からたびたび妨害や圧迫を受け、しまいには「胴巻のザハール」(66年発表)を最後に、作品の国内発表まで禁じられてしまうのである。
ところが、その後に「フランス最優秀外国文学賞」を受賞、続いて世界に輝く「ノーベル文学賞」まで受賞したのだから、これでは当時のソ連政府がおもしろく思わなかったのも頷けよう。
★〔ソ連を追放された後、生まれ変わったロシアへと帰還〕
ソルジェニーツィンは、1970年にストックホルムで開かれたノーベル賞授賞式には出席しなかった。なぜか?
彼としては、式に出席したかったのだが、当時のソ連政府が、ノーベル賞委員会の決定を快く思わなかったのである。つまり、彼がノーベル文学賞受賞者として選ばれたのは、(西側世界の)「政治的敵意のあるもの」と受け取っていたらしいのだ。
だから、もし式に出席するために海外に出た場合、ソ連政府から市民権を剥奪され、ソ連への再入国ビザが拒否される恐れが強かった。そのためにソルジェニーツィンは、やむなく出席を断念したのだ。
授賞式のあった1970年といえば、ソ連は西側諸国とは、まだまだ冷えた関係でいた時代だった。ソ連の体制に批判的なソルジェニーツィンを授賞すること自体、共産主義への敵対行為だと思われていたのかもしれない。
彼が1958年から密かに書き続けてきた「収容所群島」全3巻(1973~75)は、共産党独裁による民主弾圧の歴史を描いたドキュメント。
1973年にこれがパリで出版されると世界は騒然となった。ソ連当局はこの書を激しく非難。彼は国家反逆罪のかどで市民権を剥奪され、西ドイツへと強制追放されることに…。
しかし、その後時代は大きく変わった。ソ連が崩壊する前年にあたる1990年、彼の市民権は回復し、またロシア共和国文学賞まで授与されたのだ。が、彼は受賞を拒否。国家反逆罪の告発が取り下げられた後、ようやく祖国へと帰還を果たしたのだった。
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