「ヘミングウェイ, E. M.(1899~1961)」(アメリカの作家)

文学賞(1954年 受賞)

【経歴】

1899年7月21日イリノイ州のシカゴ郊外オークバークに生まれる。地元の高校に進学し、卒業後は新聞記者となる。第一次世界大戦に赤十字要員として従軍。1919年除隊し帰国。21年新聞特派員としてパリに赴き、文体や表現方法を学ぶ。23年「三短編と詩十編」を処女出版。その後、小品や短編を次々と発表。26年「日はまた昇る」、29年「武器よさらば」、40年「誰がために鐘は鳴る」、52年「老人と海」などを発表。53年ピューリッツァー賞受賞。54年ノーベル文学賞受賞。その後飛行機事故で瀕死の重傷を負う。61年7月2日猟銃による自殺を遂げる(享年61歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

1952年発表の「老人と海」など、作品の芸術度、完成度の高さが絶賛されたことにより、1954年ノーベル文学賞を受賞。

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★〔その業績や活動〕

文豪アーネスト・ヘミングウェイの代表的作品といえば、「日はまた昇る」、「武器よさらば」、「誰がために鐘はなる」、それに「老人と海」など、どれも大作として名高い。また彼の作品には映画化されたものも多く、それらは今でも多くの人から愛され続けている。

あの「誰がために鐘はなる」(1940年)などは、ハリウッド映画の全盛期に作られたもので、欧米の人気スターによって競演されたこともあり、大きな話題をさらった。内容は、スペイン内戦という状況下で、人間の連帯と自己犠牲の精神を描いたもの。

その「誰がために鐘はなる」を発表してからは、ヘミングウェイも第二次世界大戦に参加し、ノルマンディ作戦などで活躍したという。これで執筆活動はしばらく休止。

出版のほうも10年近くもご無沙汰していたが、その長い沈黙を破って、ついに1950年、「河を渡って木立の中へ」という作品が出版された。ところが、これは不評だった。続いて52年には「老人と海」を発表。こんどは評判となった。しかも大絶賛された。

単独で大魚と闘う老漁夫の姿が描かれているこの作品は、自然と闘う不屈の人間を象徴しながら、簡潔で雄渾な文体で、作品全体の芸術度や完成度を増していると評価される。

「老人と海」を発表した翌年の1953年、ヘミングウェイにはピューリッツァー賞が贈られた。さらにその翌年の1954年には、ノーベル文学賞が贈られたのだった。

その後、彼はアフリカ狩猟旅行の際、飛行機事故で瀕死の重傷を負っている。体力の回復に努めていたというが、それもあまり思わしくなかったらしい。そして1961年の夏、なんと彼は猟銃で自らを撃ち、帰らぬ人となった。

★〔作品の原風景は、少年時代に過ごした夏の別荘地?〕

北ミシガンは、ヘミングウェイ作品の原風景ともなっている、とも言われる。

そこは、ヘミングウェイが幼い頃から、夏になると家族とともに、決まって滞在した別荘地であった。北ミシガンのワルーン湖畔というところだ。

毎年夏の時期になると、この北ミシガンのワルーン湖畔で、彼は家族とともに過ごしていたのだ。実に、1歳のときから、高校を卒業するまでの間である。

アウトドア派の父からは、北ミシガンの自然と溶け込む手段でもある釣りや、また狩猟の手ほどきさえ受けていた。12歳の誕生日には、祖父から誕生祝いとして猟銃をもらっているのだ。このような、大らかな家族と大自然の中で、彼は育っていった。

ヘミングウェイ少年にとって、北ミシガンの豊富な自然は、自分をもっとも解放できる、そんな場であったに違いない。そして、そうした彼の原体験が作品の中にも時折、顔をのぞかせているのだろう。

★〔主にどんな作品があるか〕

「日はまた昇る」(1926年)、「男だけの世界」(1927年)、「殺し屋」(1927年)、「武器よさらば」(1929年)、「勝者には何もやるな」(1933年)、「誰がために鐘は鳴る」(1940年)、「老人と海」(1952年)、遺作の出版には「移動祝祭日」(1964年)、「海流のなかの島々」(1970年)、「エデンの園」(1986年)などがある。

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