「ヘッセ, H(1877~1962)」(スイスの詩人・作家)

■文学賞(1946年 受賞)

【経歴】

1877年7月2日ドイツのビュルテンブルグ州カルブに生まれる。名門マウルブロン神学校に入学するが、半年で中退。以後、町工場の見習い工や本屋の店員をしながら独学で文学を勉強。99年22歳のとき処女詩集「ロマン的な歌」を自費出版。1901年詩文集「ヘルマン・ラウシャー」を発表。04年「ペーター・カーメンツィント」(邦訳「郷愁」)出版。その後も「車輪の下」(06年)、「この岸」(07年)、「隣人」(08年)など、次々に書き上げていく。46年ゲーテ賞に続きノーベル文学賞受賞。62年8月9日死去(享年85歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

時代批判に基づく象徴的理念的世界を描いた大作に対して、1946年ノーベル文学賞受賞。

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★〔その業績や活動〕

ヘルマン・ヘッセは、抒情詩人として、そして作家として、世界的にその名を知られていることはご承知の通り。

日本でも、ヘルマン・ヘッセの名は、すでに大正期には知れ渡っていたという。ヘッセをこれほどまでに有名にしたのは、もちろん彼の詩や小説などの作品にあるのだが、中でも1904年に出版された「ペーター・カーメンツィント」では一躍人気を博した。日本では「郷愁」というタイトルで出版されている。

こうして弾みのついたヘッセは、その後も続々と、多くの作品を世に送り出していく。そして、やがてはノーベル文学賞受賞へと繋がることにもなる、大作「ガラス玉遊戯」を書き上げるのである。

★〔あのロマン・ロランとも親交を結び、やはり反ナチ活動を展開!〕

第一次世界大戦のとき、ヘッセは絶対的平和主義の態度をとり、フランスで立場を同じくする、あのロマン・ロランとも親交を結び、共に反戦を唱えていた。

しかし、そうした彼の反戦・平和運動もまた、ドイツ本国やマスコミからは、裏切り者として扱われる憂き目を見るのだった。彼もドイツからスイスへと身を移していたのだ。

この戦争に伴う痛烈な体験を通して、ヘッセの作風は一変したといわれる。それが、1919年の「デミアン」や、1922年の「シッダールタ」などの作品にも表れているという。

その後、世界はまたも大戦を迎えることになる。ヘッセは、この第二次世界大戦のときも、ナチス・ドイツからの亡命者の援助に努めたりと、反ナチ活動を展開。

そんな状況の中、1943年に完成したのが、時代批判に基づく象徴的理念的世界を描いた大作と評価された、あの「ガラス玉遊戯」であったのだ。実に、11年もの歳月を掛けられた力作であった。

★〔「若き日のヘッセの悩み」とは?〕

ヘッセは14歳のとき、両親の希望どおり、エリート牧師になろうとして、例のマウルブロン神学校に入学している。それが1891年のこと。

しかし、その厳しい規律と詰め込み教育に耐えられなかったのか、半年で中退することになる。それも、脱走まで図って、神学校を去ったというのだ。

脱走までして神学校を去った本当の理由は、実は今でもよく分かっていないらしい。さらには、なんとピストル自殺まで図ろうとしていたのだ。

幸い、それは未遂に終わるが、自殺しようとするほどの苦悩と混迷が、若い頃のヘッセを覆っていたのだ。そして、その悩みを取り払ったのが、母の理解と愛だったのである。

★〔主にどんな作品があるか〕〕

「車輪の下」(1906年)、「この岸」(1907年)、「隣人」(1908年)、「春の嵐(ゲルトルート)」(1910年)、「湖畔のアトリエ(ロスハルデ)(1914年)、「孤独者の音楽」(1915年)、「デミアン」(1919年)、「シッダールタ」(1922年)、「荒野のおおかみ」(1927年)、評論集「観察」(1928年)、詩集「夜の慰め」(1929年)、「知と愛」(1930年)、「東洋巡礼」(1932年)、「ガラス玉遊戯」(1943年)評論集「戦争と平和」(1946年)

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