「ジョリオ・キュリー,J. F.(1900~58)」(フランスの物理学者)

■化学賞(1935年 受賞)

【経歴】

1900年3月19日パリに生まれる。23年パリの物理化学学校卒業。25年ラジウム研究所でキュリー夫人の助手を務める。26年イレーヌ・キュリー(キュリー夫妻の長女)と結婚。その後ジョリオ・キュリーと名乗る。30年博士号取得。35年妻イレーヌと共にノーベル化学賞受賞。37年コレージュ・ド・フランスの核化学教授。44年パリの国立科学研究センター原子合成研究所所長。56年ラジウム研究所キュリー研究室室長。58年8月14日パリで死去(享年58歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

「人工放射能の研究」により、妻イレーヌと共に1935年ノーベル化学賞受賞。

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★〔その業績や活動〕

ジョリオ・キュリーは妻イレーヌと共に放射能の研究に専念していた。彼は主に化学面での分析を、そして妻イレーヌは物理面での研究を分担しておこなった。

1932年頃からは、2人はベリリウムという物質にα線を照射したときに放出される放射線の性質を調べていた。未発見の中性子を探ろうとしたのである。

ところがちょうど同じ頃、イギリスではあのラザフォードの助手J.チャドウィックが同じテーマで研究をしていた。そして、惜しいことに一足違いで、「中性子の発見」は、チャドウィックに先を越される形となってしまった(この発見でチャドウィックは1935年物理学賞受賞)。

さらには「陽電子の発見」もまた、アメリカの物理学者であるC.D.アンダーソンに先を越されてしまうのだ(この発見で1936年物理学賞受賞)。

このように、この時代は元素の粒子の「研究と発見のラッシュ」が続いていたことが分かる。そして1934年のこと、ジョリオらは、ついに軽い元素にα線を照射することで人工放射線が得られるという、最大の発見を成し遂げたのだった。

これによって翌年の1935年、ジョリオとイレーヌは夫婦で、ノーベル賞の栄光に輝くことになったのである。キュリー家にとって3つ目のノーベル賞だった。

★〔2代続けての、しかも夫婦そろってのノーベル賞受賞!〕

キュリー夫妻は夫婦で研究生活を共にしていたが、その長女イレーヌ(物理学者)と結婚したフレデリック・ジョリオ(キュリー夫人の助手)もまた物理学者であり、やはり夫婦で研究生活を共にすることとなった。そして、キュリー夫妻には息子がいなかったため、その「キュリー姓」を保持しようと、ジョリオは結婚後、ジョリオ・キュリーと名乗ったのである(フレデリック・ジョリオ・キュリー)。

キュリー夫人がノーベル賞を2回受賞したことは前述したが、それも1903年のノーベル物理学賞のときは夫婦そろっての受賞である。これだけでも、「夫婦共にノーベル賞受賞だなんて、スゴイな!」と思ってしまうのだが、さらにはその娘夫妻までが、夫婦そろってノーベル化学賞を1935年に受賞したのである。

まさに、その頃のキュリー家は「ノーベル賞一家」って感じか?

★〔「キュリー夫人」を中心に見た「ノーベル賞家族」の構成〕

父:ヴラドゥイスラフ・スクロドフスキー(物理学教師;後に失業して家族の経済悪化)

母:(女子学校の校長;マリーの幼少時に死亡)

5人目の子供(マーニャ・スクロドフスカ;Manya Sklodowska〔ポーランド名〕)

「マリー・キュリー」─(婚姻)─夫:ピエール・キュリー
(キュリー夫人;物理学者) (フランスの化学者)

フレデリック・ジョリオ─(婚姻)─娘:イレーヌ・キュリー(物理学者)
(キュリー夫人の助手) (キュリー夫妻の長女)

《結婚後、ジョリオ・キュリーと名乗り、「キュリー姓」を保持》
(フレデリック・ジョリオ・キュリー)(イレーネ・ジョリオ・キュリー)

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