「キュリー,M.(1867~1934)」(フランスの科学者)

■化学賞(1911年 受賞)

【経歴】

1867年11月7日ポーランドのワルシャワに生まれる。91年パリに赴きソルボンヌで物理学の勉強を始める。93年物理学修士試験に1番で合格。94年数学修士試験に2番で合格。同年ピエール・キュリーと知り合い95年7月結婚。1900年セーヴルの女子師範学校物理学教授。03年放射能の研究によりノーベル物理学賞受賞。06年パリ大学理学部物理学講師。08年同大学教授。11年ノーベル化学賞受賞。34年7月4日、悪性貧血症により死去(享年67歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

「ポロニウムとラジウムの発見(金属ラジウムの分離)」などにより、1911年ノーベル化学賞を受賞。

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★〔その業績や活動〕

マリー・キュリー、つまりキュリー夫人は、世界的にも大変に有名な、女流物理学者として知られている。1903年には放射能の研究によって、夫ピエールとともにノーベル物理学賞を受け、さらに1911年にもポロニウムとラジウムの発見により、2つ目のノーベル賞を受けている。そのときはノーベル化学賞である。

このように、ノーベル物理学賞と化学賞の、両方の賞を授与された科学者は、なんと彼女だけ。男性の研究者でも、これまで無かったことだ。

当初、彼女は学位を取得するための研究テーマを模索していたという。そして、ベクレルの放射能の発見(1996年)に触発され、この分野の研究に着手することにしたのだ。

あるとき、研究のために用いていたウラン原鉱の「ピッチブレンド」(酸化ウランの鉱石)から、ウランの4倍もの強さをもつ放射能が放出されていることに気づき、彼女はここにまだ発見されていない新元素が存在する可能性を感じた。そして、夫ピエールの協力のもと、この鉱石の化学分析を進めたのだった。

そうして化学処理をしてみた結果、新たに2種類の新元素が存在していることが判明した。それがポロニウムとラジウムだったのである。

そのうちのラジウムは、ウランの200万倍もの強い放射性をもつが、それはわずかな量しか存在しなかった。そこで4年間かかって、5トンの鉱石からようやく0.1gほどのラジウムが得られると、こんどはそれをもとに原子量を測定。その結果、原子量は225と決定された。彼女はこれで学位論文を書いたのだ。

それから後、学位を得るどころか、彼女はノーベル賞まで得たのだった。また、彼女は夫とともに、放射能によるガン治療なども試みていた。しかし皮肉なことに、長年にわたるラジウムの取り扱いにより、やがては彼女自身が放射能障害に倒れてしまうのである。

★〔「これだけは!」○×クイズ〕

次の設問に、「○か×か」で答えよ。

1.「キュリー夫人は、1903年に放射能の研究によって、夫ピエールとともにノーベル物理学賞を受けた」

2.「1911年にもポロニウムとラジウムの発見により、2つ目のノーベル賞を受けた」

3.「『ピッチブレンド』とは、酸化ウランの鉱石のことで、ここからはウランの20倍もの強さをもつ放射能が放出されていた」

4.「キュリー夫人は、ラジウムの原子量を測定した」

5.「ラジウムの原子量を225と決定した彼女は、そのことを新聞で伝えるために、さっそく科学記事を書いた」

答え:1.「○」、2.「○」、3.「×」、4.「○」、5.「×」

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