文学賞(1953年 受賞)
【経歴】
1874年11月30日イギリスに生まれる。サンドハースト陸軍士官学校を経て陸軍に入隊。98年従軍記「マラカンド野戦軍」、「河畔の戦争」(99年)で文名を得る。99年陸軍を辞め『モーニング・ポスト』特派員としてブーア戦争の取材に赴き、そこで捕虜となって脱出した体験記を発表(1900年)。00年保守党から下院に入る。04年自由党に移籍。23年から29年に2つの大戦の回顧録「世界の危機」(全4巻)を執筆。39年海相に任じられ、40年首相となる。演説や著作に見る格調高い語法は英語とともに残るとまでいわれ、53年ノーベル文学賞を受賞。65年1月24日に死去。(享年91歳)。
【受賞理由となった業績や活動】
★〔受賞理由〕
演説や著作に見る格調高い語法(文体)によって、1953年ノーベル文学賞を受賞。
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★〔その業績や活動〕
ウィンストン・(レオナルド・スペンサー・)チャーチルは、第二次世界大戦中のイギリスの首相として知られるが、実はノーベル文学賞を受賞したほどの文名ももっていた。
また、チャーチルの口から語られる政治や戦争についての格調高い演説は、聴いている人々に大きな感動を引き起こしたと言われる。
政治家であり、文筆家であり、演説家でもあった彼には、さらにポロ競技、風景水彩画の才があり、実に多方面に非凡ぶりを発揮していたことが窺える。
彼の代表作としては、「世界の危機」と「第二次世界大戦」の2作品が挙げられよう。これらは、世界史の貴重な資料になるとともに、彼の格調高い文体によって、大きな感動をもって、多くの人々に読み継がれていく作品ともなっている。
1953年のノーベル文学賞はまさに、そうした格調高い語法(文体)に対して授与されたのだった。
★〔チャーチルが「雄弁な最高指導者」になるまでの経緯〕
チャーチルは、スペイン継承戦争に戦功をたてた名門貴族で、国際的にも名高い将軍、初代マールバラ公爵(ジョン・チャーチル)の子孫にあたる。父は、第二次ソールズベリ保守党内閣で蔵相を務めた政治家ランドルフ・チャーチルだった。
その長男であるウィンストン・チャーチルも、陸軍の軍人や特派員記者を経て、後に保守党から下院に入り、その後はJ.チェンバレンの保護関税政策に反対し、1904年に自由党に移籍した政治家だった。
その自由党内閣が発足すると、06年以後は殖民相次官、商相、内相などを歴任。さらに11年からは海相として、海軍力の強化を断行するなど、当時のドイツの脅威に対抗した策を取っていった。
一時は、ダーダネルス海峡攻撃の失敗を引責して辞職している(15年)が、フランスに出征した後の17年には、軍需相として復活。第一次世界大戦が始まってからは、空相と同時に陸相、そして殖民相を務めたりもした。
29年に内閣が総辞職してからは、10年余り閣外にとどまっていたが、この後、第二次世界大戦の勃発と同時に、再び悔相に任じられた。そして、ノルウェー作戦失敗を機に辞職したチェンバレンの後を継いで、40年に首相の地位を獲得したのであった。
この頃は、ナチス・ドイツが台頭していた時期でもあり、このことに危機感を感じたチャーチルは、英仏ソの同盟を盛んに主張していた。
そして、ナチス・ドイツに宣戦布告。彼の演説の雄弁さは、軍隊のみならず、イギリス国民をも鼓舞したのだった。自らは国防省を兼務し、政軍両権を掌握して戦争の最高指導に当たるなど、強力な戦時内閣を組織していった。
こうした力強い指導によって、またアメリカのルーズベルト、ソ連のスターリンとともに、ナチスを攻め落とし、連合軍を勝利へと導くことに成功したのである。
★〔主にどんな作品があるか〕
「マラカンド野戦軍」(1898年)、「河畔の戦争」(1899年)、体験記「London to Ladysmith via Pretoria」(1900年)、「世界の危機(全4巻)」(1923~29年)、「わが半生」(1930年)、「第二次世界大戦(全6巻)」(1948~54年)、「英語国民の歴史(4巻)」(1956~58年)
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