「ラッセル, B. A. W(1872~1970)」(イギリスの哲学者・論理学者)

文学賞(1950年 受賞)

【経歴】

1872年5月18日イギリス・ウェールズ地方に生まれる。ケンブリッジ大学で主に数学を専攻(他に哲学も学ぶ)。95年ドイツに留学、社会民主主義を学ぶ。1901年数学の集合における「ラッセルのパラドックス」を発見。03年「数学の諸原理」を著す。10年母校の恩師と共に「数学原論」を出版。「見知り理論」や「記述の理論」で記号論理学や数学基礎論に貢献。16年反戦運動で大学を追われ、18年半年間投獄される。21年来日しジャーナリズムでも活躍。社会評論や哲学の著述にも専念。政治・教育・社会問題に関する著書多数。50年ノーベル文学賞受賞。70年2月2日死去(享年98歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

社会評論や哲学に関する多数の著書を著し、また世界大戦時には平和を唱え、さらにジャーナリズムの世界でも広く活躍した、それらの功績により1950年ノーベル文学賞受賞。とくに「結婚と道徳」(1929年)、「西洋哲学史」(1945年)などの執筆で評価が高い。

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★〔その業績や活動〕

政治、教育、社会問題など、実に多くの著書を書き続けたバートランド・ラッセル。彼は、戦前から一級の哲学者と認められていた反面、世間からは変人扱いされ、また排斥されてもいた。やはり天才には、常人とはどこか一味違った「変人」的素質(?)があるのだろうか?

そのラッセルの活躍した分野は、哲学や教育にとどまらず、平和運動にまで及んでいる。彼の経歴を見てみると、まずケンブリッジ大学にいたときには、哲学と数学を学んでいたことが分かる。さらにドイツ留学の際には、社会民主主義を学び、あのマルクス主義にも共鳴していたことがあったようだ。

彼は、数学の分野でも才能を開花させている。集合における「ラッセルのパラドックス」と呼ばれる理論を発見し、それを基に「数学の諸原理」なる著書まで著しているのだから、やはり常人とは頭の出来が違うようである。それによって、母校の講師にも抜擢され、恩師ホワイトヘッドと共に、数学に関する本まで出版しているのだ。

才能が地位や収入にも直結し、まさに順風満帆・・・と思いきや、その後、事態は一転、彼は大学を追われるハメとなる。なぜか?

第一次世界大戦になると、ラッセルは平和論を唱え、反戦運動を展開することになる。それがもとで講師の職を取り上げられ、さらには半年間も投獄されてしまうのである。

★〔世界平和運動に身をささげた、ノーベル文学賞受賞者!〕

戦後も、彼は政治や教育、それに社会問題に関する多くの著書を書き上げていく。やがて、少しずつ彼の評価は高まり、また彼の著書の真価も次第に認められるようになる。そうして、イギリス王ジョージ6世から勲功賞を授けられるのが、1950年のこと。同年、ノーベル文学賞も贈られている。

その後も、反戦運動をはじめ、原水爆禁止運動、それに植民地解放運動にまで、彼は献身的な活動をするようになる。1955年には、あのアルバート・アインシュタインと共に、原水爆禁止を謳った「ラッセル・アインシュタイン声明(宣言)」を発表。これは、ノーベル賞学者ら11人が共同で「核兵器廃絶」に向けた宣言であり、後の核兵器禁止運動の礎石ともなるものである。

こうして、ラッセルの経歴や功績を見ていくと、彼が受賞したノーベル賞は、平和賞であってもよかったのではないか、とも思えてくるのである。

★〔主にどんな作品があるか〕

「哲学の諸問題」(1912年)、「哲学の科学的方法」(1914年)、「自由への道」(1918年)、「精神の分析」(1921年)、「中国の問題」(1922年)、「産業文明の将来」(1923年)、「物質の分析」(1927年)、「懐疑論集」(1928年)、「結婚と道徳」(1929年)、「科学的な態度」(1931年)、「宗教と科学」(1935年)、「権力論、新しい社会分析」(1938年)、「意味と心理の研究」(1940年)、「西洋哲学史」(1945年)、「人間の知識」(1948年)、「倫理と知識」(1950年)、「倫理と政治における人間社会」(1954年)、「人間に未来はあるか」(1961年)

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