「シュヴァイツァー , A.(1875~1965)」(フランスの哲学者・神学者・医師・オルガン奏者 )

平和賞(1952年 受賞)

【経歴】

1875年1月14日当時ドイツ領だったアルザス地方カイゼルベルクに生まれる。ストラスブルグ大学に学び、99年「カントの宗教哲学」により哲学博士号取得。J.S.バッハの研究とパイプ・オルガン演奏に傾倒、また神学研究を進め、02年同大学講師となる。01年「メシアと受難の秘密」、05年「J.S.バッハ」、06年「イエス伝研究史」、11年「パウロ研究史」などを発表(刊行)。05年パリ・バッハ協会創立。06年大学の職を辞め12年医学博士となる。13年アフリカのランバレネに熱帯病病院を建てて医療活動に入る。23年「文化哲学」を刊行。52年ノーベル平和賞受賞。65年9月4日死去(享年90歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

生命の尊厳を倫理観の主なる表現と見た、彼独特の道徳原理に裏打ちされた医療奉仕、また医療伝道を実践してきたことに対して、1952年ノーベル平和賞受賞。

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★〔その業績や活動〕
哲学の博士号をもち、さらには有能なオルガン奏者でもあったアルベルト・シュヴァイツァーは、大学職についていたとき、突如「霊的衝撃」を感じ、それを契機に医者になることを決意した。

それも、医者に恵まれないアフリカ黒人を救うのが主な目的だという。そのため、彼は大学を辞め、医学を学び、そして数年後には医師の資格を得たのだ。

そして翌年には、当時フランス領だったアフリカのランバレネというところに渡り、その地で看護婦の夫人とともに、アフリカ黒人の医療のために、尽くしたのである。

彼が現地に開設した医療施設(熱帯病病院)によって、マラリア、らい、赤痢などの治療ができるようになり、こうして多くの原住民の命が救われたのだった。

しかし、そうした彼の献身的な行為は、文明圏にある人々からはなかなか理解されずにいた。やはり、彼も最初のうちは、変人の類としか思われなかったのだろう。

第一次世界大戦が始まると、彼はドイツ国籍であったため、フランスの捕虜収容所に収容されてしまうのだ。それで、このときのアフリカ滞在は4年半ほどだった。

戦後、彼はバッハの曲の演奏会などで資金を得ることに成功。そう、シュヴァイツァーは、世界的にも有名なオルガン奏者であったのだ。

また「水と原生林のはざまで」(21年)という著書も評判になり、こうしてランバレネの病院を再建・運営するための資金調達の目処が立った。彼は再びアフリカに渡って、黒人医療に寄与しようと考えていたのである。

そして、病院は再建され、アフリカでの彼の医療奉仕は生涯にわたって続けられた。

★〔「生命に畏敬の念を抱きながらの医療、そして教育」〕

これほどまでのアフリカ黒人に対する献身ぶりは、彼が「密林の聖人」と呼ばれていたことにも窺える。その奉仕の精神は、「生命を維持・繁栄させることは善であり、生命を破損・抑圧することは悪である」という、彼自身が確立した道徳原理がもとになっていたのだ。

このように、彼は「生命に畏敬の念をもつこと」の重要さを説き、「自分の生命の中に、他者の生命を体験すること」の素晴らしさ、また「生命を傷つけ破壊すること」の愚かしさを人々に教え、自らはそれを体感・実践していったのだろう。

これらの功績により、1952年ノーベル平和賞を受賞した彼は、寄付金にその賞金を加え、さらにハンセン病患者のための病院まで建設したという。

その偉大な医師であり哲学者でもあったシュヴァイツァーは、1965年ランバレネで生涯を閉じ、その地に葬られたのであった。

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