「川端 康成(1899~1972)」(1968年 文学賞)

1899年大阪府生まれ。東京帝大国文科卒業。1921年(帝大在学中)発表の『招魂祭一景』が認められる。52年芸術院賞。61年文化勲章。68年ノーベル文学賞受賞。72年没(4月16日ガス自殺)。

代表作: 『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』『千羽鶴』他。

【受賞理由となった業績や活動】

(1968年、日本人初のノーベル文学賞受賞)

1968年10月17日、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞した。

アジアでは2人目のノーベル文学賞受賞となった。1人目は、1913年受賞のインドの詩人・タゴール。それから、実に55年目となる、アジアでの文学賞受賞だったのだ。

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当時、川端のノーベル文学賞を伝える外電は、その受賞理由を「氏の作品は、微細な感受性をもって日本人の心の神髄を表現した」と伝えている。

そして、スウェーデン・アカデミーのノーベル文学賞選考委員長であった、アンダーシュ・エステルリンク博士は、受賞理由として次のように述べていた。

「作家としての卓越した手法をもって、文化の道徳的、倫理的意識を表現し、それによって東洋と西洋との間に精神的な架橋をすることに貢献した」

(幼いころから近親者の死に接して…)

川端康成は、1899年6月14日、大阪市北区に生まれるが、その後立て続けに近親者の死に接することになる。

1歳7ヶ月のときに父が、そして2歳7ヶ月のときには母が亡くなっている。その後、祖父母に引き取られるが、尋常高等学校に入学した7歳のときには祖母が亡くなり、10歳のときには叔母の家に預けられていた姉が亡くなっている。

そして、ついに1914年には祖父も亡くなるのだが、その死が迫る日々の記録を『十六歳の日記』という作品に、さらに幼い頃からの近親者の死に接した体験を『葬式の名人』という作品に纏めている。

(激動の時代を生きた作家の横顔)

1917年に上京した川端は、20年には東京帝大の文学部に進学。本格的に文学を志そうと決めたのだ。『新思潮』に発表した「招魂祭一景」が認められたのは、川端がまだ帝大文学部に在学中の、1921年のことだった。

23年に雑誌『文藝春秋』を創刊した菊池寛は、川端を編集同人に加えており、その後、彼らは「新感覚派」と呼ばれるようになる。菊池は、さまざまな局面で川端に援助を与えたという。

終戦の後、川端は、無名の三島由紀夫を文壇に登場させるキッカケを作るなど、新人の発掘に熱心であったという。その後も川端と三島は親密な師弟関係を続けることになる。

また、キューバ危機が起こった1962年には、核兵器に反対し、世界平和を目指す「世界平和アピール七人委員会」に参加したり、67年には三島らとともに、中国文化大革命による芸術、学問の圧殺に抗議する声明を発表したりもしている。

このように、川端は社会に対して、さまざまな働きかけをした作家としても知られているのだ。

〔ノーベル文学賞受賞に必要不可欠な翻訳者の存在〕

ノーベル文学賞の受賞に必要不可欠であるのが、翻訳者の存在ということになる。

日本文学の作品が海外でも広く読まれるためには、それを海外に紹介する翻訳者がどうしても必要になってくる。

川端の作品の場合は、エドワード・G・サイデンステッカー(日本文学研究者)という翻訳者が、そのノーベル文学賞受賞に大きく貢献したと言われる。

1955年、アメリカの『アトランティック・マンスリー』という雑誌が、日本特集を組んだ際、『伊豆の踊子』の部分訳を載せたのが、彼が川端文学を紹介した最初だったという。

その後も、サイデンステッカーは、川端の作品の多くを英訳出版していった。

そして、そうした彼の翻訳活動が、やがては川端のノーベル文学賞受賞へと繋がっていくのであった。川端自身、氏が自分の作品の翻訳者であったことが、受賞にも大きくつながった、と語っていたようである。

サイデンステッカーは、川端のノーベル賞授賞式にも同行し、川端の記念講演である「美しい日本の私─その序説」の通訳まで担当したのだった。

「クイズこれだけは!」

次の設問に、「○か×か」で答えよ。

1.川端康成の代表作には、『伊豆の踊子』『雪国』『川の音』などがある。

2.川端は、幼少から立て続けに近親者の死に接していた。

3.アンダーシュ・エステルリンク博士は、川端文学の翻訳者であった。

4.川端は、アジアでは初のノーベル文学賞受賞となった。

5.川端の授賞理由は、『雪国』などで日本の美を表現したことにある。

答え:1.×、2.○、3.○、4.×、5.○

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