「ボーア,N.H.D.(1885~1962)」(デンマークの物理学者)

■物理学賞(1922年 受賞)

【経歴】

1885年10月7日コペンハーゲンに生まれる。1911年コペンハーゲン大学で学位取得後、イギリスに留学。16年コペンハーゲン大学物理学教授。20年ニールス・ボーア研究所(理論物理学研究所)所長。22年ノーベル物理学賞受賞。62年11月18日コペンハーゲンで死去(享年77歳)。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

「原子論構造の研究」により、1922年ノーベル物理学賞受賞。

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★〔その業績や活動〕

原子核の周りをいくつかの電子が回っている状態を示した、原子模型。学校の理科の教科書などにその挿絵が載っていたのを、覚えているという方もおられるだろう。太陽系の構造と似たイメージのある、例の模型のことだ。

この原子模型を打ち出し、実際にも原子構造の解明に貢献のあったのは、あのアーネスト・ラザフォード(イギリスの物理学者)である。

そして、ここで取り上げているニールス・ボーアもまた、新しい原子模型の理論を提唱したことで知られている。「ボーアの原子模型」と呼ばれるものだ。

ラザフォードは彼の恩師であった。そのラザフォードの原子模型に、そのころの新知見である「プランクの量子説」などを導入して、新たに理論化したものが「ボーアの原子模型」だったのである。

ボーアはまた、元素の周期律を原子論構造にもとづいて説明することにも成功した。こうした原子構造に関する一連の研究に対して、1922年にノーベル物理学賞が贈られたのである。

ボーアはその後も、理論物理学研究所の所長の地位にとどまり、終生「原子論」の研究を続けるのだが、一時はあのアインシュタインと量子力学の解釈をめぐって激しい激論を繰り返すなど、後世にまで語り継がれる有名なエピソードも残している。

★〔何代にも渡って受け継がれ、少しずつ洗練していくもの〕

彼の息子である、A・ボーアもまた物理学者となり、さらに1975年に父と同様、ノーベル物理学賞を受賞している(研究仲間どうし、3人での共同受賞)。

その受賞理由はというと、「原子核内の集団運動と独立粒子運動との関係の発見、およびそれに基づく原子核構造の理論の展開の業績」というもの。

その研究のなかで、息子ボーアも、父の原子模型(原子核モデル)をさらに発展させていったのである。

そうやって見ていくと、何かの研究というのも、恩師からその弟子へ(あるときは親から子へ)と受け継がれ、徐々に洗練していくものであることが分かる。その途中には、論敵なども現れたりする(ボーアの場合はアインシュタイン)。

そういう意味では、何か一つの研究にかける学者たちも、その一人一人は、リレー競争をしているランナーのようなものなのだろう。

★〔「これだけは!」クイズ〕

1.「ニールス・ボーアが提唱した、新しい原子模型は何と呼ばれていたか?」

2.「『ボーアの原子模型』というのは、それより前の『ラザフォードの原子模型』にあるものを導入して、新たに理論化したものだという。その『あるもの』とは何か?」

3.「ニールス・ボーアは『原子論構造の研究』により、ノーベル物理学賞を受賞したが、その受賞年は1920年より前か後か?」

答え:1.「ボーアの原子模型」、2.「プランクの量子説」、3.「後(1922年)」

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