「ワトソン,J.D.(1928~)」(アメリカの分子生物学者)

■生理学・医学賞(1962年 受賞)

【経歴】

1928年4月6日アメリカのシカゴで生まれる。47年15歳で入学したシカゴ大学を卒業、インディアナ大学へ進学。50年学位取得。51年イギリスのケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所へ移る。53年カリフォルニア工科大学研究員。56年ハーバード大学に移り、その後助教授。61年同大学準教授。62年ノーベル生理学・医学賞受賞。68年コールド・スプリング・ハーバー生物学研究所所長。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

「DNAの分子モデルの研究」(核酸の分子構造と遺伝情報の伝達に関する研究)によって、共同研究者であるF.H.C.クリックとM.H.F.ウィルキンズらとともに、1962年ノーベル生理学・医学賞受賞。

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★〔その業績や活動〕

1953年4月、アメリカのジェームズ・ワトソンとイギリスのフランシス・クリックによって、『核酸の分子構造について─ デオキシリボース核酸の構造 ─』と題する論文が、イギリスの科学雑誌『ネーチャー』誌に発表された。

あの有名な「DNAの二重らせん構造モデル」もこの論文の中で提唱されていたのである。そのとき、ワトソンは弱冠25歳、クリックは37歳と2人とも若く、まだ無名の研究者であった。

彼らは、ウィルキンズによる「DNA分子をX線で回析した資料」や「シャルガフの法則」など、それまでに分かっていたDNAに関する化学的・物理的な資料だけを参考に、DNAの構造を解明したのだった。

このように、この論文は、多くの薬品を使うような実験からではなく、DNAの分子模型を作るといった、工作的な作業から生まれたところも、ユニークな点であった。

しかし、この「二重らせん構造モデル」はあまりにも美しく、また合理性の面からも、実に見事な出来映えであったことから、やがては多くの熱烈な支持を受け、功績のほうも異例ともいえるスピードで認められたのである。

そして1962年、ワトソンは34歳、クリックは46歳という若さで、ノーベル生理学・医学賞を受賞することとなったのだ。

★〔まさに「論文は厚さではなく、その中身の濃さ」で勝負だ!〕

雑誌『ネーチャー』誌に掲載された論文のページ数は、なんとたったの2ページ、語数にするとわずか900語だったという。つまり、「20世紀最大の発見」といわれる論文は、わずか900語で書かれていたことになる。

まさに「論文の価値は厚さではなく、その中身の濃さで決まる」。これは、ワトソンの共同研究者であったF.クリック博士の言葉である。

★〔「これだけは!」○×クイズ〕

次の設問に、「○か×か」で答えよ。

1.「『DNAの二重らせん構造モデル』についての論文が出されたとき、ワトソンは20代半ばで、まだ無名の研究者であった」

2.「F.クリックは、ワトソンの共同研究者であった」

3.「『DNA分子をX線で回析した資料』や『シャルルの法則』が、DNA構造解明のヒントとなった」

4.「DNA構造が解明(発表)されたのは、記念すべき1953年4月であった」

5.「ワトソンとクリックは、『二重らせん構造モデル』を粘土で作り上げた」

6.「1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞したとき、ワトソンは30代半ばだった」

答え:1.「○」、2.「○」、3.「×」、4.「○」、5.「×」、6.「○」

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