「大江 健三郎(1935~)」(1994年 文学賞)

1935年愛媛県生まれ。58年『飼育』で芥川賞受賞。59年東京大学文学部卒業。67年『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞受賞。94年ノーベル文学賞受賞。97年アメリカ芸術アカデミー・外国人名誉会員。2000年ハーヴァード大学名誉文学博士号取得。代表作:『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『宙返り』他。

【受賞理由となった業績や活動】

(作品世界の「普遍性」が評価される)

大江健三郎は、以前「(一貫して)日本の読者を、それも同時代を共有した人たちに向けて書く」と述べたことがあるが、それにもかかわらず、彼の作品は多くの外国人読者をも惹きつけ、相変わらずの根強い支持を受けている。

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作品は、英語、フランス語、ドイツ語をはじめ、ハンガリー語やスペイン語など30近くの言語に訳され、その結果、外国にも彼の作品を愛する多くの読者が存在しているのだ。

スウェーデン・アカデミーから挙げられたノーベル賞受賞の理由も、作品を読んだ者すべてが共感できる、言語や文化の壁を越えた、その「普遍性」が高く評価されたようである。

ところで、彼の作品世界の原点は、故郷四国の森の奥の谷間や、少年時代をすごした大瀬の森にあるとされている。森は、多様性にみちた一つの小宇宙であり、彼にとって、そこは故郷のようにノスタルジックに迫ってくる、掛け替えのない場である、というわけだ。

そうした少年時代の原体験の場が、「彼の著作の舞台や基盤となり、またその創造力の源にもなっている」ということである。

(22歳から作家の生活をはじめる)

大江健三郎は、1935年1月31日、愛媛県喜多郡で生まれた。旧家の7人きょうだいの三男だった。
子供の頃から外国の物語を読むのが好きだった彼は、中学時代にもなると、ドエトエフスキーの『罪と罰』などの文庫版を取り寄せては、夢中で読みふけっていたという。

成長してからも、ランボーやE.S.エリオットの詩の暗唱を楽しむなど、日本の詩のみならず、外国語の詩にも触れることが多かった。

上京した彼は、東京大学のフランス文学科に進み、サルトルやラブレーらの20世紀文学を学ぶ一方、英語や日本語の文学の習得にも努めた。

そうした、まだ学生に身をおく22歳のときに、彼は作家の生活をスタートさせたのである。大学卒業の前年(1958年)、『飼育』という作品で、芥川賞を受賞したのだった。

さらに、10年後の1967年には、『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞を受賞。しかも、このときは32歳での受賞という、これまた記録的な最年少での受賞だった。

〔ノーベル賞受賞決定の報を受けた直後の、喜びの第一声〕

1994年10月13日午後9時過ぎ、数十人の記者に対して、ノーベル賞受賞決定の報を受けた大江は、次のように語ったという。

「今、日本文学の水準は高い。安部公房、大岡昇平、井伏鱒ニが生きていれば、その人たちが受賞しても当然だったと思う。日本の現代作家が積み上げてきた仕事のお陰で、生きている私がもらった」(東京・世田谷区成城の自宅前で、待ち受けていた記者に対して語ったとされる言葉から)

〔より倫理的で、より多様なイメージをもたらす文体〕

(「本人の言葉」から抜粋2001年の「ノーベル賞フォーラム」にて)

「私の文章は、伝統的な日本文学の、美しく、バランスがとれて深いとされてきた文体とは違うスタイルになりました。

しかし自分では、より倫理的で、より多様なイメージのひろがりのあるものになった、と思っていました。

もちろん、私の文章が持って廻った、ただ難しいだけの悪文だ、という批判は、最初からあり、いまに続いているのですが、それは皆さんがよく御存知のことです。

じつはそれこそなにより無鉄砲な野望ですが、私には、ずっとこの書き方をみがいて行って、やがてガリレオ・ガリレイの対話の文章に近付いてやる、という気持ちがあり、自分の選んだ出発点はまちがっていないという確信もあったのでした…」(2001年10月10日の「ノーベル賞フォーラム」における、氏本人の言葉から)

「クイズこれだけは!」

1.大江健三郎の、30代のときの『谷崎潤一郎賞』は何の作品に対してだったか?

2.大学卒業の前年(1958年)、『飼育』という作品で、大江は何の賞をとったか?

3.2000年には、どこの大学の名誉文学博士号を取得しているか?

4.次の作品の、タイトル中の○○の部分を埋めよ。→『○○的な体験』

答え:1.『万延元年のフットボール』、2.芥川賞、3.ハーヴァード大学、4.個人

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