「アウン・サン・スー・チー(1945~)」(ミャンマーの民主化運動指導者)

平和賞(1991年 受賞)

【経歴】

1945年6月19日首都ラングーン(現ヤンゴン)に生まれる。母の赴任地であるインドで学生時代を過ごし、マハトマ・ガンジーの非暴力・不服従運動に大きく影響される。イギリスのオックスフォード大学で政治学、哲学、経済学を学ぶ。国連に3年ほど勤務。85年京都大学研究員。88年4月母の看護のためミャンマーに帰国、その後「民主化要求運動」に参加。91年それまでの論文・演説・インタビューがまとめられた本がロンドンで刊行される。同年ノーベル平和賞受賞。

【受賞理由となった業績や活動】

★〔受賞理由〕

民主主義と人権回復のための非暴力闘争、また闘争で示した勇気ある言動などに対して、1991年ノーベル平和賞受賞。

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★〔その業績や活動〕

アウン・サン・スー・チーは長いこと、外国で学者として暮らしていた。その彼女が(今でいうミャンマーに)帰国したのは、88年4月のこと。理由は、重病の母親を看護するためだったのだが、帰国してまもなく母は息を引き取った。

丁度そのころ、帰国したミャンマーでは軍と民衆が衝突しており、軍によって多数の死傷者が出ていた。軍の発砲で何千人もの民衆が殺されるなど、あってはならないことだ。

では、どうして軍と民衆は衝突していたのか、その経緯を簡単に見ていこう。

戦後、イギリスの支配から脱して、ようやく「ビルマ」として独立したのが1948年。

ところがその後(1962年)、参謀総長だったネ・ウィンがクーデターを起こし、政権を奪取。(以後、国軍による軍事政権が続くことになる)

このとき、クーデター政権は「ビルマ式の社会主義」を採用したのだった。国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」に変更(74年)。

しかし、国軍による社会体制では、民衆の暮らしは楽にならなかった。事実、1987年には、国連から「最貧国」と認定されるほどだったのだ。

こうして、独立から40年後の1988年、学生を中心に大規模な反政府デモ(民主化要求運動)が起きたのだった。「国軍」に対する民衆の不満がこの時点で爆発したのだ。

その後も、民主化要求運動は国内全域に広がっていった。そして社会主義政権は崩壊。

ところが、こんどはまた別の軍人が政権を握り、その国軍が武力でデモを鎮圧し、多数の死傷者を出していった、というわけである。

とくに88年8月8日の民主化要求デモは最大規模だった。暴動にまで発展したのだ。

このときの民衆の暴動を鎮圧するため、クーデターを宣言した軍は、民衆に向けて容赦のない発砲を続けた。それにより、千人近くの市民が命を落としたといわれる。

母国に帰国していたスー・チーも、民主化要求運動に加わり、その後もこうした運動を続けていった。また、民主主義と人権回復のための「非暴力闘争」の必要性を説いていったりもした。(軍はクーデター後、国名を「ミャンマー」と改名)

その後、彼女は国軍から不法な権利によって、自宅軟禁されてしまう。が、そんな状況に置かれても、彼女は権力に屈しない力強さを示し、それがまた民衆に勇気を与えていったのである。

1991年、彼女が民衆に説いた「民主主義と人権回復のための非暴力闘争」に、ノーベル平和賞が贈られることになった。だが、その授賞式は彼女が不在のまま行われた。そのとき、彼女はなおも軟禁されていたからである。

★〔「これだけは!」○×クイズ〕

1.「ネ・ウィン率いるクーデター政権は、『インド式の社会主義』を採用した」

2.「スー・チーは、ガンジーの非暴力・不服従運動に大きく影響された」

3.「ミャンマーは1987年、国連から『最貧国』と認定されるほどの天災に見舞われた」

答え:1.「×」、2.「○」、3.「×」

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