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	<title>エピソードで知るノーベル賞の世界</title>
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	<description>ノーベル賞にまつわるエピソード</description>
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		<title>「田中 耕一（1959～）」（2002年 化学賞）</title>
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		<pubDate>Sat, 25 Dec 2010 09:35:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル化学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1959年富山県生まれ。83年東北大学工学部電気工学科卒業、㈱島津製作所（技術研究本部中央研究所）入社。86年同社計測事業本部･第二科学計測事業部･技術部第一技術課。92年同社分析事業本部･第一分析事業部技術部。2002 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/02/112.html">「田中 耕一（1959～）」（2002年 化学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>1959年富山県生まれ。83年東北大学工学部電気工学科卒業、㈱島津製作所（技術研究本部中央研究所）入社。86年同社計測事業本部･第二科学計測事業部･技術部第一技術課。92年同社分析事業本部･第一分析事業部技術部。2002年同社分析計測事業部･ライフサイエンスビジネスユニット･ライフサイエンス研究所。受賞歴： 2002年ノーベル化学賞受賞、その他にも日本質量分析学会奨励賞。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（それまではタンパク質の質量を計るのは至難の業とされていた）</p>
<p>2002年、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一（㈱島津製作所）の研究業績を、一言で（一気に）言うと、「生体高分子の質量分析法のための穏和な脱着イオン化法の開発」となる。簡単に言うと「タンパク質の質量分析法の開発」ということである。</p>
<p>つまり、それまでの技術では限界があった「タンパク質の質量分析法」を飛躍的に発展させたところに、ノーベル賞を受賞するだけの価値があったのだ。<span id="more-112"></span></p>
<p>ところで、「タンパク質」といっても、ここで言っているものは、ハムやステーキといった、目に見える大きさのたんぱく質（食品）のことではない。ここでいうタンパク質とは、もっと微細で、細胞の中でつくられるような、さまざまな「生体高分子」のことを言っているのだ。</p>
<p>一方、タンパク質以外の微細な物質では、質量分析法はすでに確立されていた。たとえば半導体や金属の表面など、そうした微細質量（ミクロの物質）を測定するにあたっては、物質にレーザー光をあてて、これをイオン化する「レーザー脱離質量分析法」（Laser Desorption Mass Spectrometry →「ＬＤＭＳ」）という方法がとられていたのである。</p>
<p>ところが、同じ方法でタンパク質の質量を計ろうとしても、そのレーザー光によってタンパク質が壊されてしまうので、質量を測定することは至難の業と考えられていたのだ。</p>
<p>つまり、数多くのアミノ酸から成り立っている複雑なタンパク質は熱にも弱くできているために、高いエネルギーをもつレーザー光によって、バラバラにされてしまうのだ。だから、タンパク質を直接にイオン化すること自体ができなかったのである。</p>
<p>それで、タンパク質を破壊せずにイオン化するためには、いわばレーザー光からタンパク質を護る「補助剤」（マトリックス）を新たに開発することが必要だったというわけだ。</p>
<p>（「ミスが転じてノーベル賞！」まさに失敗は成功のもと）</p>
<p>田中らの研究グループでは、補助剤としてコバルトの粉末を選択し、その濃度や混ぜ方についての試行錯誤を繰り返していたという。</p>
<p>そして、いつものように補助剤の濃度を変えながらタンパク質にレーザー光の照射を試していた、ある日のこと、田中はコバルトの粉末と液体のグリセリンを、誤って混ぜてしまったのだ。</p>
<p>ところが、普通なら「不要なもの」と捨てるところを田中の場合は、そうはしなかった。</p>
<p>「もったいない」という気持ちから、なんとかその再使用ができないものかと考えたというのだ。さらに、その混合液をタンパク質と混ぜたうえで、ふだんの実験でするように、真空中でそれにレーザー光を当ててみたところ、これが思いがけぬことにイオン化したのだった。</p>
<p>「とりあえず、なんとなく」といった感覚でしたことが、功を奏したわけである。</p>
<p>ともかく、この混合液を補助剤として使うことで、タンパク質はレーザー光が当たっても壊れることなくイオン化し、それによって質量も計ることができたのである。</p>
<p>そして、この田中の発見がキッカケとなって、その後は補助剤の改良も格段に進み、こうして高分子のタンパク質を壊さずに、イオン化して行なう「質量分析法」は大きく前進することになったのである。</p>
<p>〔微細なタンパク質の質量分析の仕組み〕</p>
<p>微細なタンパク質の質量分析は現在、以下のように行われている。</p>
<p>まず、質量を知りたいタンパク質にレーザー光を当てて、これをイオン化し、その電気的な力で気相中に飛ばし、それが検出器まで飛ぶ時間（飛行時間）を計ることによって、タンパク質の質量を割り出している。</p>
<p>つまり、気相中を早く飛ぶものは軽く、ゆっくり飛ぶものは重いというように、その速度からタンパク質の質量を計算するわけだ。</p>
<p>そして、この原理が「飛行時間型質量分析法」（Time of Flight Mass Spectrometry →「TOFMS（トフマス）」）と呼ばれる、現在の質量分析法として応用されているのである。</p>
<p>と、このように言うと、至極簡単なことのようにも聞こえるが、少し前（1980年代半ば）までは、前述のようにタンパク質をイオン化すること自体、不可能であるとも考えられていた。</p>
<p>それを可能にする補助剤を開発し、タンパク質の質量分析を大きく飛躍させたところに、田中耕一のノーベル賞受賞理由があるというわけだ。</p>
<p>「クイズこれだけは！」</p>
<p>次の設問に、「○か×か」で答えよ。</p>
<p>１．田中耕一は、「タンパク質の質量分析法」を飛躍的に発展させるキッカケをつくった。</p>
<p>２．ある日、田中はコバルトの粉末と液体のグリセリンを誤って混ぜてしまった。</p>
<p>３．「補助剤」（マトリックス）には、レーザー光からタンパク質を護る役割がある。</p>
<p>答え：１．○、２．○、３．○</p>
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		<title>「小柴 昌俊（1926～）」（2002年 物理学賞）</title>
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		<pubDate>Fri, 24 Dec 2010 13:23:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル物理学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1926年9月19日愛媛県生まれ。51年東京大学理学部物理学科卒業。55年ロチェスター大学大学院終了。70年東京大学理学部教授。87年定年退官、東京大学名誉教授、東海大学理学部教授。2002年ノーベル物理学賞受賞。その他 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/03/111.html">「小柴 昌俊（1926～）」（2002年 物理学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>1926年9月19日愛媛県生まれ。51年東京大学理学部物理学科卒業。55年ロチェスター大学大学院終了。70年東京大学理学部教授。87年定年退官、東京大学名誉教授、東海大学理学部教授。2002年ノーベル物理学賞受賞。その他、85年ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字賞受賞をはじめ、仁科記念賞、朝日賞、日本学士院賞、藤原賞、文化勲章、Wolf賞など。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（超新星爆発からのニュートリノを見事にキャッチ！）</p>
<p>「ニュートリノ天文学」という言葉を聞いたことはあるだろうか？</p>
<p>これは、これまでの光や電波を観測手段とする天文学とはちがって、新たに「ニュートリノ」という素粒子を観測手段とする天文学のことを指した言葉なのである。<span id="more-111"></span></p>
<p>ところで、そのニュートリノ自体は、早くも1930年にはウォルフガング・パウリ（1945年のノーベル賞受賞者）によって、その存在が予測されていたのだが、存在の証明のほうは、それから数十年後まで待たなければならなかった。</p>
<p>このように、存在の証明がきわめて困難だったのは、ニュートリノが他の物質との間で、何らの相互作用も起こさないという性質をもつことから、検出しにくいという事情があったのだ。</p>
<p>ところが、1987年2月、小柴昌俊らのグループは、地球から遠く離れた宇宙で起こった超新星爆発によって飛び出たニュートリノを、みごと検出することに成功。それだけではなく、その後はこのニュートリノに質量があることなども明らかにしたのだった。</p>
<p>同時に、ニュートリノの精密な測定を可能にする実験装置なども開発し、こうして「ニュートリノ天文学」という、新しい観測手段と天文学、そして「素粒子・宇宙線物理学」など、新たな学問の道を切り開くに至ったのである。</p>
<p>この業績により、小柴昌俊（東京大学名誉教授）は2002年のノーベル物理学賞を受賞したのである。</p>
<p>〔高さ16メートルの水槽に純水3,000トンを満たした「カミオカンデ」〕</p>
<p>1987年2月23日、地球から16万光年の彼方にある「ＳＮ１９８７」と呼ばれる超新星からのニュートリノを検出。これが、世界で最初の「超新星爆発からのニュートリノ観測」となった。</p>
<p>このときの観測（検出）を可能にした実験装置が、「カミオカンデ」と名付けられた、巨大な検出装置なのである。これは、岐阜県神岡鉱山（神岡鉱山の地下1,000メートルに設けられた地下実験室内）に設置されている。</p>
<p>神岡鉱山の地下にある実験装置なので、その地名から「カミオカンデ」と命名されたわけだが、より詳しく言うと「Kamioka Nucleon Decay Experimet」の略でもある。（その後、「Kamioka Neutrino Detection Experimet」と改められた。）</p>
<p>また、観測装置そのものの名称は「大型水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置」というように、この装置には、直径15.6メートル、高さ16メートルの水槽に純水3,000トンが満たされており、それによって、水槽内でニュートリノ現象を観測できるようになっていた。</p>
<p>最も特徴的なのは、この水槽内の壁には、直径約50センチの「光電子増倍管」が、１平方メートルに１個の割合で配置され、それが全部で約1,000個も用意されていたことだ。</p>
<p>（数年前、この光電子増倍菅が、新型の水槽内で突如連鎖的に破裂するという事件が起こった）</p>
<p>〔ニュートリノが水中で「チェレンコフ光」を発する瞬間を検出〕</p>
<p>ニュートリノのような高速の荷電粒子は、水中に入ると「チェレンコフ光」と呼ばれる青白い光を発することが知られている。「光電子増倍管」は、そうしたチェレンコフ光を捕らえることが可能なので、これによってニュートリノの検出もできるというわけだ。</p>
<p>さらにその後、より大規模な観測装置である「スーパーカミオカンデ」も造られ、この後継装置によって、太陽ニュートリノや大気ニュートリノなどの観測にも成功したほか、前述したように、ニュートリノに質量があることなども明らかにしたのだ。</p>
<p>とくに、検出装置を通過した全1016個のニュートリノのうち、11個を捕獲したことが、ノーベル賞の受賞理由にも大きくつながった。</p>
<p>〔共同受賞者の研究業績は？〕</p>
<p> 2002年のノーベル物理学賞は、宇宙粒子や宇宙線を通して、新しい天文学を切り開いた業績に対して贈られることとなった。 小柴と共同受賞したのは、レイモンド・デイヴィス（Raymond Davis Jr）とリカルド・ジャコーニ（Riccard Giacconi）だ。</p>
<p>前者は、30年間に太陽からのニュートリノを総数2,000個捕獲するのに成功し、その結果、核融合が太陽のエネルギー を供給していることを証明した。</p>
<p>後者は、特殊な装置により、われわれの住む太陽系の外からのＸ線源を初めて検出し、宇宙にはＸ線のバックグラウンド放射があることを初めて証明した。（「文部科学省ホームページ」参考）</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/03/111.html">「小柴 昌俊（1926～）」（2002年 物理学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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		<title>「野依 良治（1938～）」（2001年 化学賞）</title>
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		<pubDate>Thu, 23 Dec 2010 08:57:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
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		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1938年兵庫県生まれ。61年京都大学工学部卒業。67年工学博士号取得。68年名古屋大学理学部助教授。72年同大学教授。96年同大学大学院教授。2000年名古屋大学物質科学国際研究センター長、文化勲章受章。01年ノーベル [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/02/110.html">「野依 良治（1938～）」（2001年 化学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1938年兵庫県生まれ。61年京都大学工学部卒業。67年工学博士号取得。68年名古屋大学理学部助教授。72年同大学教授。96年同大学大学院教授。2000年名古屋大学物質科学国際研究センター長、文化勲章受章。01年ノーベル化学賞受賞。他にもウォルフ賞（イスラエル）、ロジャー・アダムス賞（米国化学会）など受賞歴多数。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（長年の苦労が報われて、大きな喜びとなる瞬間）</p>
<p>「Greatest honor in my life !」（人生最大の光栄です。喜んでお受けします）</p>
<p>2001年10月10日の午後7時ちょっと前。仕事場に掛かってきた電話を受け取り、先方の話を聞いた後、こう答えたのは、野依良治（名古屋大教授）だった。</p>
<p>それは、本当にこれまでの苦労が全て報われたと感じられる、そんな瞬間だっただろう。<span id="more-110"></span></p>
<p>それはスウェーデンからの国際電話で、ストックホルムのスウェーデン王立科学アカデミーからのものだった。野依教授のそれまでの研究業績が認められて、その年のノーベル化学賞の受賞者に決まったことを知らせる電話だったのである。</p>
<p>受賞理由はと言うと、「有機化合物の光学異性体を選択的に合成する手法の開発」ということになる。簡単に言うと、「光学異性体」という、これまでは人工的な合成が極めて困難だった化学物質を、意図するとおりに合成できるようにしたのであった。</p>
<p>ノーベル賞発表直後に名古屋大学本部で開かれた会見でも、「科学者にとって最大の栄誉。同じ分野でやってきた国内外の仲間に感謝したい」と、実に率直な気持ちを表していた。</p>
<p>（満100歳を迎えたノーベル賞の記念すべき年に影を落とすもの）</p>
<p>野依良治（名古屋大教授）は、記念すべき「21世紀最初のノーベル賞受賞者」となった。</p>
<p>しかも、2001年のノーベル賞そのものが、満100歳を迎えた、記念的なものだった。</p>
<p>ただ、それはあの忌わしい同時多発テロ（9.11）の後ということもあって、それほど盛大な祝賀的なものには至らなかったようである。自粛ムードは世界を包んでいたのだ。</p>
<p>うれしい時、素直に「喜び」を表現したい時、皆で祝杯をあげるべき時に、そうした喜びが抑えられてしまう時ほど、不幸な気持ちにさせられることもない。</p>
<p>とくに、同時多発テロで多くの人を死傷させる目的で利用されたものは、すべてハイテクと呼ばれていたもの。それらは本来、人の幸福追求の結果生み出されてきたものだった。</p>
<p>ノーベル賞は、人類の平和や幸福に貢献した研究や活動に与えられているが、それもダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルの自責の念がキッカケになったとも言われている。いずれにせよ、これからだって、ノーベル賞級の科学的成果が、戦争やテロに使われないとは言い切れないのである。</p>
<p>（「右」か「左」か、そのどちらかを選んで作る方法）</p>
<p> 「光学異性体」というのは、別名を「鏡像異性体」ともいう。なぜなら、この分子（有機化合物）は鏡に映った像のように、左右が対称形となる2種類の姿をもっているからである。</p>
<p>そして便宜上、この「鏡像異性体」の中の水素が、左右のどちらに付いているかで、「右手」型と「左手」型とに呼び分けているのである。</p>
<p>実は、こうした鏡像関係になる異性体は、アミノ酸をはじめ、多くの有機化合物に見られるのだが、不思議なことにその割合は自然界の中では偏っていることが分かっている。</p>
<p>たとえば、昆布などの旨味の本体であるグルタミン酸は、自然界では「左手」型のみが存在し、たとえ人工的に「右手」型のものを作っても、それには旨味が感じられない。</p>
<p>このように、素材は同じであるのに、「右手」型か「左手」型かの違いによって、薬効があったり無かったり、あるいは「右手」型には薬効があるにもかかわらず、「左手」型ともなると逆にひどい副作用を起こさせるといった、それほどの違いもあるのだ。</p>
<p>これまでの人工的な合成では「右」と「左」が半々にできてしまい、それでは製造効率上の問題があった。また前述したような、副作用を起こさせる側が誤って混入したため、大きな社会問題を引き起こした例もあったのだ。あのサリドマイド事件がそうである。</p>
<p>もう、お分かりかと思うが、野依の業績はまさに、この「右」か「左」か、一方の化合物だけを選択的に合成する手法を編み出したことにある。</p>
<p>〔「右手にコーラン、左手に剣」に思うこと〕</p>
<p>「右手にコーラン、左手に剣」という言葉がある。それは、右手では「平和や幸福への道」を示しているのに、他方の左手には「戦争に使う武器」を携えている、といった意味でも捉えられている。</p>
<p>これなども、人類が一丸となって「右手」だけを選択することができたなら、どんなに良いことだろう。その方法を確立した人には、それこそノーベル平和賞が与えられるに違いない。</p>
<p>人類の科学技術力から「副作用」の部分を排除させ、選択的に「薬効」の部分だけを取り出させた、その偉大な業績に対して･･･。</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/02/110.html">「野依 良治（1938～）」（2001年 化学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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		<title>「白川 英樹（1936～）」（2000年 化学賞）</title>
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		<pubDate>Wed, 22 Dec 2010 10:39:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル化学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1936年東京生まれ。陸軍軍医だった父の仕事の関係で、幼少期を台湾で過ごす。61年東京工業大理工学部化学工学科卒業。66年同大学大学院博士課程終了、同大学資源化学研究所助手。79年筑波大助教授。82年同大学教授、83年高 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/02/109.html">「白川 英樹（1936～）」（2000年 化学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1936年東京生まれ。陸軍軍医だった父の仕事の関係で、幼少期を台湾で過ごす。61年東京工業大理工学部化学工学科卒業。66年同大学大学院博士課程終了、同大学資源化学研究所助手。79年筑波大助教授。82年同大学教授、83年高分子学会賞受賞。2000年筑波大名誉教授、文化勲章、ノーベル化学賞受賞。01年総合科学技術会議議員。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（ミレニアムのノーベル化学賞は「導電性ポリマーの発見と開発」に対して）</p>
<p>西暦2000年というミレニアム（千年紀）にも、日本人はノーベル化学賞を受賞する栄誉に与ることができた。ノーベル賞の授賞が始まったのが1901年からなので、この年はそれからちょうど、100年の節目にも当たっていた。<span id="more-109"></span></p>
<p>その「ミレニアム・ノーベル」の栄誉を受けることになったのは、白川英樹。受賞につながった研究業績は、「導電性ポリマーの発見と開発」であった。</p>
<p>白川は大学の助手の時代から、化学の研究においても、いろいろな興味を抱いていた。</p>
<p>その中の一つに、ポリアセチレンが物質としてどんな性質を持っているのかという、「物性」の問題があった。新たに合成したポリアセチレンフィルムは、見た目には金属そのものだったが、そのままでは金属のように自由に電気を流すことができなかったのである。</p>
<p>いわば、金属と絶縁体との中間である「半導体」的な性質を持っていただけだ。</p>
<p>このポリアセチレンフィルムの合成のことをまとめた論文は、大して注目されることなく、国内に埋もれたままだったという。</p>
<p>ところが、その後、東工大を講演のために訪れたアメリカのアラン・マクダイアミッド氏（ペンシルベニア大教授）は、この金属のような光沢のあるポリアセチレンのフィルムを見て、大変驚いたということが伝えられている。</p>
<p>これがキッカケとなり、白川はその後このマクダイアミッド氏から、博士研究生として、アメリカの大学に招待されることになる。</p>
<p>こうして、マクダイアミッド、ヒーガー、そして白川の3人によって、「ポリアセチレンフィルムの電気的性質」に関する共同研究が始まったのである。</p>
<p>そして、あるとき、ポリアセチレンに臭素を加えた実験で、その電気伝導度が一気に1000万倍近くにも増大することが確かめられた。</p>
<p>それは、電気を通すプラスチック（導電性ポリマー）が、今まさに生まれたことを意味していた。1976年11月23日のことだった。</p>
<p>（ノーベル賞へと繋がった「幸運なミス」とは？）</p>
<p>遡ること1967年、東京工業大学に韓国から留学に来ていた研究生（ピョン・ヒョンチク）の指導をしていた白川は、その研究生が実験に使用したフラスコの中に「黒光りをした、ボロ雑巾のようなフィルム状の物質」が張り付いているのを目にした。</p>
<p>ピョン研究生は、白川に「（実験は）うまくいきませんでした。言われたとおりにやってみたのですが･･･」と、沈んだ表情で言ったらしい。が、このことが、後に「ノーベル賞へと繋がる幸運なミス」と伝えられるようにもなるのだ。</p>
<p>というのは、この研究生は、白川から指示された量の1000倍もの濃度の触媒を使って、ポリアセチレンの合成実験をやっていたのだ。メモに書かれていた「mmol」（ミリモル）のうち、「m」（ミリ）を外して「mol」（モル）だけを読んでしまった、ということらしい。</p>
<p>「m」（ミリ）は「1000分の1」を示す単位なので、これがなければ1000倍の濃度となってしまうのだ。（実際は、「m」を書き忘れたのか、それとも読み間違えたのか、定かではないらしい）</p>
<p>これによって、触媒の濃度が1000倍にもなっていたために、重合反応の速度も1000倍に加速され、その結果、電気を通すポリアセチレンフィルムが合成されたというのだ。</p>
<p>それが、あの黒光りのボロ雑巾のように見えたのだった。ただ、この時点では、まだ金属ほどの導電性を有するわけではなかった。それでも、この発見によって、それまでの「プラスチックは電気を通さない」という常識が、常識では無くなったのである。</p>
<p>このときの「幸運なミス」が、2000年のノーベル化学賞へとつながったというわけだ。</p>
<p>〔青年時代における本人の言葉〕（高校の卒業文集「将来の夢」から）</p>
<p>「高校を卒業出来たら、出来る事なら大学へ入って、化学や物理の研究をしたい。現在できているプラスチックの欠点を取りのぞいたり、色々新しいプラスチックを作り出したい。</p>
<p>現在ナイロンのくつ下や、ビニールのふろしき等が出来ているが、あつい弁当をつつむと、のびたままもとにもどらない。非常に熱に弱い、これも一つの欠点である。</p>
<p>これらの欠点をのぞき、安価に作れるようになったら、社会の人々にどんなに喜ばれる事だろう。日常品のあらゆる方向に利用されるだろう。僕は以上の事を将来の夢としたい」（卒業文集から）</p>
<p>そして、夢は実現した。</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/02/109.html">「白川 英樹（1936～）」（2000年 化学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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		<title>「大江 健三郎（1935～）」（1994年 文学賞）</title>
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		<pubDate>Tue, 21 Dec 2010 11:41:41 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル文学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1935年愛媛県生まれ。58年『飼育』で芥川賞受賞。59年東京大学文学部卒業。67年『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞受賞。94年ノーベル文学賞受賞。97年アメリカ芸術アカデミー・外国人名誉会員。2000年ハーヴァ [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/04/108.html">「大江 健三郎（1935～）」（1994年 文学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>1935年愛媛県生まれ。58年『飼育』で芥川賞受賞。59年東京大学文学部卒業。67年『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞受賞。94年ノーベル文学賞受賞。97年アメリカ芸術アカデミー・外国人名誉会員。2000年ハーヴァード大学名誉文学博士号取得。代表作：『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『宙返り』他。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（作品世界の「普遍性」が評価される）</p>
<p>大江健三郎は、以前「（一貫して）日本の読者を、それも同時代を共有した人たちに向けて書く」と述べたことがあるが、それにもかかわらず、彼の作品は多くの外国人読者をも惹きつけ、相変わらずの根強い支持を受けている。<span id="more-108"></span></p>
<p>作品は、英語、フランス語、ドイツ語をはじめ、ハンガリー語やスペイン語など30近くの言語に訳され、その結果、外国にも彼の作品を愛する多くの読者が存在しているのだ。</p>
<p>スウェーデン・アカデミーから挙げられたノーベル賞受賞の理由も、作品を読んだ者すべてが共感できる、言語や文化の壁を越えた、その「普遍性」が高く評価されたようである。</p>
<p>ところで、彼の作品世界の原点は、故郷四国の森の奥の谷間や、少年時代をすごした大瀬の森にあるとされている。森は、多様性にみちた一つの小宇宙であり、彼にとって、そこは故郷のようにノスタルジックに迫ってくる、掛け替えのない場である、というわけだ。</p>
<p>そうした少年時代の原体験の場が、「彼の著作の舞台や基盤となり、またその創造力の源にもなっている」ということである。</p>
<p>（22歳から作家の生活をはじめる）</p>
<p>大江健三郎は、1935年1月31日、愛媛県喜多郡で生まれた。旧家の7人きょうだいの三男だった。<br />
子供の頃から外国の物語を読むのが好きだった彼は、中学時代にもなると、ドエトエフスキーの『罪と罰』などの文庫版を取り寄せては、夢中で読みふけっていたという。</p>
<p>成長してからも、ランボーやE．S．エリオットの詩の暗唱を楽しむなど、日本の詩のみならず、外国語の詩にも触れることが多かった。</p>
<p>上京した彼は、東京大学のフランス文学科に進み、サルトルやラブレーらの20世紀文学を学ぶ一方、英語や日本語の文学の習得にも努めた。</p>
<p>そうした、まだ学生に身をおく22歳のときに、彼は作家の生活をスタートさせたのである。大学卒業の前年（1958年）、『飼育』という作品で、芥川賞を受賞したのだった。</p>
<p>さらに、10年後の1967年には、『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞を受賞。しかも、このときは32歳での受賞という、これまた記録的な最年少での受賞だった。</p>
<p>〔ノーベル賞受賞決定の報を受けた直後の、喜びの第一声〕</p>
<p>1994年10月13日午後9時過ぎ、数十人の記者に対して、ノーベル賞受賞決定の報を受けた大江は、次のように語ったという。</p>
<p>「今、日本文学の水準は高い。安部公房、大岡昇平、井伏鱒ニが生きていれば、その人たちが受賞しても当然だったと思う。日本の現代作家が積み上げてきた仕事のお陰で、生きている私がもらった」（東京・世田谷区成城の自宅前で、待ち受けていた記者に対して語ったとされる言葉から）</p>
<p>〔より倫理的で、より多様なイメージをもたらす文体〕</p>
<p>（「本人の言葉」から抜粋2001年の「ノーベル賞フォーラム」にて）</p>
<p>「私の文章は、伝統的な日本文学の、美しく、バランスがとれて深いとされてきた文体とは違うスタイルになりました。</p>
<p>しかし自分では、より倫理的で、より多様なイメージのひろがりのあるものになった、と思っていました。</p>
<p>もちろん、私の文章が持って廻った、ただ難しいだけの悪文だ、という批判は、最初からあり、いまに続いているのですが、それは皆さんがよく御存知のことです。</p>
<p>じつはそれこそなにより無鉄砲な野望ですが、私には、ずっとこの書き方をみがいて行って、やがてガリレオ・ガリレイの対話の文章に近付いてやる、という気持ちがあり、自分の選んだ出発点はまちがっていないという確信もあったのでした…」（2001年10月10日の「ノーベル賞フォーラム」における、氏本人の言葉から）</p>
<p>「クイズこれだけは！」</p>
<p>１．大江健三郎の、30代のときの『谷崎潤一郎賞』は何の作品に対してだったか？</p>
<p>２．大学卒業の前年（1958年）、『飼育』という作品で、大江は何の賞をとったか？</p>
<p>３．2000年には、どこの大学の名誉文学博士号を取得しているか？</p>
<p>４．次の作品の、タイトル中の○○の部分を埋めよ。→『○○的な体験』</p>
<p>答え：１．『万延元年のフットボール』、２．芥川賞、３．ハーヴァード大学、４．個人</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/04/108.html">「大江 健三郎（1935～）」（1994年 文学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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		<title>「利根川 進（1939～）」（1987年 生理学･医学賞）</title>
		<link>http://nobel.arayax.com/01/107.html</link>
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		<pubDate>Mon, 20 Dec 2010 10:52:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル医学・生理学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1939年愛知県生まれ。59年京都大学理学部入学。63年京大ウイルス研究所、カリフォルニア大学サンディエゴ校（ＵＣＳＤ）生物学科留学、理学博士号取得後、カリフォルニア大学、69年ソーク研究所（アメリカ）、71年バーゼル免 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/01/107.html">「利根川 進（1939～）」（1987年 生理学･医学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1939年愛知県生まれ。59年京都大学理学部入学。63年京大ウイルス研究所、カリフォルニア大学サンディエゴ校（ＵＣＳＤ）生物学科留学、理学博士号取得後、カリフォルニア大学、69年ソーク研究所（アメリカ）、71年バーゼル免疫学研究所（スイス）を経て、81年マサチューセッツ工科大学生物学教授に就任。87年ノーベル生理学・医学賞受賞。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（日本人初のノーベル生理学・医学賞）</p>
<p>1987年、日本人としては初のノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、利根川進（マサチューセッツ工科大学教授）。</p>
<p>受賞理由は「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」だった。<span id="more-107"></span></p>
<p>この研究成果で、日本はバイオテクノロジーの分野でも世界に認められることになる。</p>
<p>では、その「多様な抗体を生成する遺伝的原理」について、簡単に述べていこう。</p>
<p>化学物質、細菌、ウイルスなど、われわれの身の周りには、身体にとって実に多くの「毒となる異物」がある。そうした異物に囲まれながらも、われわれは子供の頃から比較的無事に成長していき、やがて老いていくことになる。</p>
<p>ヒトの一生の間、人体に取り込まれる異物は、それこそ膨大な数にのぼるだろう。</p>
<p>さまざまな異物のことは、それを総称して「抗原」と呼んでいる。そして、人体にはこれら多くの抗原を無毒化するためのたんぱく質がある。</p>
<p>いや、「無毒化するためのたんぱく質がある」というより、「無毒化するためのたんぱく質がつくられる」といったほうがいいかもしれない。</p>
<p>この「無毒化するためのたんぱく質」が、「抗体」と呼ばれているものである。</p>
<p>ある抗原が身体に入ってくると、それが刺激となって、それに対応する抗体がつくられるというわけだ。</p>
<p>1つの抗原には、1つの抗体が必要となるので、たとえば抗原が1億あるとすると、それを無毒化する抗体も1億必要ということになる。さもないと、1億の中のたった1つの抗原のためにも、われわれは命を落とす危険があるのだ。</p>
<p>（抗原抗体反応の遺伝的仕組みの解明）</p>
<p>こうした抗体を製造するための設計図は、遺伝子ＤＮＡがもっているのだが、これに関しては長年、「生物学上のミステリー」となっている疑問があった。</p>
<p>何故、何億もの抗原を無毒化するための専用の抗体の遺伝子を、人体は最初からもっているのか？<br />
研究当時、1つの遺伝子は1つのたんぱく質に対応していることが分かっていた。</p>
<p>また、遺伝子の数は3，4万個ほどと考えられていた。多く見積もっても、せいぜい10万個だろうとされていたのだ。</p>
<p>それに対して、われわれの免疫システムは、環境中にあるさまざまな抗原に対応する抗体を、なんと100億個以上もつくる能力があることが判明していたのだ。</p>
<p>これでは、抗体をつくる遺伝子がぜんぜん足らないということになる。だから、生まれながらにして、すでに膨大な抗体を用意しているということは考えられなかった。</p>
<p>そうではなく、遺伝子が成長とともに、組み変わっていくのではないか、とする仮説も提示された。だが、それをうまく説明することはできなかった。</p>
<p>（それまでの免疫学上の「神秘のヴェール」を取り払った）</p>
<p>こうして、「抗体の多様性」発現のミステリー（英語では「Generation of Diversity；ＧＯＤ」）は、生物学、あるいは免疫学の世界を覆っていたのだ。</p>
<p>そして、その、まさしく「神（ＧＯＤ）の秘密」（神秘）のヴェールを取り払ったのが、利根川だったのである。</p>
<p>長い期間にわたる、多くの試行錯誤と実験上の困難を乗り越えて、ようやく辿り着いた「抗体の多様性」をもたらす正体。それをごく簡単にかいつまんで言うと、次のようになる。</p>
<p>ちょうど、アルファベットの「Ｙ」字形の立体構造をした抗体は、そのＹ字の腕の先に、さまざまな抗原と反応できるような、アミノ酸配列に多様性のある「可変領域」をもっていることが分かってきた。</p>
<p>そして、その可変領域の遺伝子を調べていき、ついに抗体の多様性の仕組みが明らかとなったのだ。</p>
<p>「分子生物学者になりたい」学生の頃からのその思いどおり、今、彼は世界から最も注目される「分子生物学者」の一人となっている。</p>
<p>「クイズこれだけは！」</p>
<p>次の設問に、「○か×か」で答えよ。</p>
<p>１．抗体は、アルファベットの『Ｘ』の字形の立体構造をしている。</p>
<p>２．われわれの身の周りには、抗原となりうる実に多くの『異物』がある。</p>
<p>３．利根川進は、日本人としては初のノーベル物理学賞を受賞した。</p>
<p>４．利根川は、スイスのバーゼル免疫学研究所で抗体の多様性について研究していた。</p>
<p>答え：１．×、２．○、３．×、４．○</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/01/107.html">「利根川 進（1939～）」（1987年 生理学･医学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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		<title>「福井 謙一（1918～98）」（1981年 化学賞）</title>
		<link>http://nobel.arayax.com/02/104.html</link>
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		<pubDate>Sun, 19 Dec 2010 07:52:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル化学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1918年10月4日奈良県生まれ。41年京都帝大工学部卒業。51年同学部教授。62年日本学士院賞。71年学部長。81年米科学アカデミー会員、文化勲章、ノーベル化学賞受賞。82年京都工芸繊維大学長。88年基礎化学研究所所長 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/02/104.html">「福井 謙一（1918～98）」（1981年 化学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>1918年10月4日奈良県生まれ。41年京都帝大工学部卒業。51年同学部教授。62年日本学士院賞。71年学部長。81年米科学アカデミー会員、文化勲章、ノーベル化学賞受賞。82年京都工芸繊維大学長。88年基礎化学研究所所長。98年1月9日死去（享年79歳）。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（日本人初の「ノーベル化学賞」を受賞）</p>
<p>1981年、ひさびさに日本人にノーベル賞受賞者が現れた。しかも、初の「ノーベル化学賞」での受賞だ。受賞者は、福井謙一その人である。</p>
<p>ちなみに、彼は「もっとも化学者らしくない化学者」、そう形容されることもあった。<span id="more-104"></span></p>
<p>81年のノーベル化学賞につながった業績は、「化学反応におけるフロンティア電子理論」。</p>
<p>それは、受賞の年から30年近くも遡る、1952年に米国物理学会刊行の「化学物理雑誌」4月号に、「芳香族炭化水素の反応性に関する分子軌道理論」という論文として、初めて発表されたものだった。</p>
<p>化学にあまり強くない人は、このタイトルを聞いただけでも、頭がクラクラきてしまうかもしれない。だが、この理論のおかげで、それまではうまく説明できなかった「化学反応のメカニズム」が、よりよく説明できるようになったのだ。</p>
<p>（それまでの理論では、化学反応のメカニズムが解けなかった）</p>
<p>それまで「化学反応のメカニズム」を説明する理論には、「電子論」（英国のＲ・ロビンソンによるもの）と呼ばれるものがあった。</p>
<p>これは、プラスとマイナスの電荷が引き合うという古典的な考えのもと、化学反応している化合物（分子）の中の電子を、すべて平均的に扱おうとする理論だった。</p>
<p>しかし、この「電子論」では、化学反応の実験における実際のデータと理論がうまく合わないことが分かっていた。「芳香族炭化水素」という化合物では、とくに計算が合わなかったのである。</p>
<p>（最も外側の軌道にある電子だけが反応にかかわる「フロンティア電子理論」）</p>
<p>福井が「もっとも化学者らしくない化学者」という形容をされたのは、彼が「白衣と試験管」が付き物の化学者のイメージではなく、代わりに「紙と鉛筆」によって計算で理論を打ち立てようとする、「理論物理学者」的な姿勢をもっていたからだ。</p>
<p>実際、彼は化学が好きになって、化学者の道に進んだわけではないという。恩師（喜多源逸；京都大学工学部応用化学科教授）の言った、「数学が得意であるなら、化学をやりなさい」という言葉がキッカケになって、化学者になったというのだ。</p>
<p>また、量子力学の本質を理解していたことも、化学反応のメカニズムを解くうえで役に立ったのである。</p>
<p>彼は、それまでの「電子論」の考え方を改め、分子のもっとも外側にある軌道（フロンティア軌道）の電子だけが化学反応に関わっており、すべての電子が平均的に反応に関与するわけではない、とする考えを打ち出したのだった。</p>
<p>「フロンティア軌道」というのは、電子が化学反応に関わる軌道である。そして、この「フロンティア電子理論」がその後広く認められ、冒頭で述べたように1981年のノーベル化学賞へとつながるのである。</p>
<p>〔実は「量子力学」に強かった？細かいものや緻密な計算が得意な日本人〕</p>
<p>それにしても、湯川、朝永、江崎、そして福井と、みな量子力学の世界で、その独特な発想を偉大な発明や発見に結び付けている。福井は、ノーベル化学賞の受賞であるが、その業績は、前述のとおり「量子力学的な考え」を化学反応に持ち込んだことにある。</p>
<p>日本人は、よく「手先が器用だ」とか「暗算が得意だ」と言われるが、もしかすると量子力学的な「ミクロの世界」の探求にも、もともと向いているのかもしれない。</p>
<p>〔本人の言葉〕（福井謙一氏の「化学」に対する思い）</p>
<p>「学生時代から化学よりもむしろ物理に目を向けていた私は、『化学は、いつまでたっても古典的なことばかりにかかわりあうのか』という思いを抱いていました。</p>
<p>喜多先生に『応用へ入ったからには基礎を勉強しろ』と言われ、私は化学の基礎は物理、物理の基礎は量子力学、と勝手に決めていましたから、化学の世界に量子力学を当てはめることを考えていたのです。」</p>
<p>「クイズこれだけは！」</p>
<p>次の設問に、「○か×か」で答えよ。</p>
<p>１．『フロンティア軌道』というのは、電子が化学反応に関わる軌道である。</p>
<p>２．福井謙一は、日本人初のノーベル化学賞受賞者となった。</p>
<p>３．分子のもっとも外側にある軌道の電子だけが、化学反応に関わっている。</p>
<p>答え：１．○、２．○、３．○</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/02/104.html">「福井 謙一（1918～98）」（1981年 化学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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		<item>
		<title>「佐藤 栄作（1901～75）」（1974年 平和賞）</title>
		<link>http://nobel.arayax.com/05/103.html</link>
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		<pubDate>Sat, 18 Dec 2010 09:11:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル平和賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1901年山口県生まれ。東京帝大法学部卒業。鉄道省入省、運輸次官。48年吉田内閣官房長官。49年衆院議員に初当選、自由党幹事長。55年無所属（自民党結成に不参加）。58年岸内閣蔵相。61年池田内閣通産相。64年首相。74 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/05/103.html">「佐藤 栄作（1901～75）」（1974年 平和賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1901年山口県生まれ。東京帝大法学部卒業。鉄道省入省、運輸次官。48年吉田内閣官房長官。49年衆院議員に初当選、自由党幹事長。55年無所属（自民党結成に不参加）。58年岸内閣蔵相。61年池田内閣通産相。64年首相。74年ノーベル平和賞受賞。75年没。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（佐藤栄作のノーベル平和賞受賞に至る背景は？）</p>
<p>1974年12月10日、ノルウェーの首都オスロで、佐藤栄作にノーベル平和賞が贈られた。受賞の理由として、「平和裏に沖縄返還を実現した功績」が挙げられたが、とくに、その沖縄返還の基盤となった「核兵器を造らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則の意義が強調されたという。<span id="more-103"></span></p>
<p>戦後のワシントン講和条約（1951年）によって、沖縄は日本から切り離され、アメリカにその施政権が与えられていた。つまり、アメリカに取り上げられたようなものである。</p>
<p>もちろんのこと、沖縄をはじめ本土からも、沖縄の早期返還を望む声は高まっていた。ところが当時は、極東の緊張もまた高まっていたため、（早期に）沖縄が返還される見込みは、かなり低いと見られていたのだ。</p>
<p>それが、1969年11月に開かれた日米首脳会談（ニクソン大統領と佐藤首相）のとき、沖縄が返還されることに決まったのである。</p>
<p>記念すべき「沖縄が復帰を果たした日」、それは1972年5月15日のことだった。</p>
<p>（「沖縄の返還」に政治生命をかける）</p>
<p>この1974年のノーベル平和賞受賞から遡ること、1965年8月19日、初めて沖縄を訪れた佐藤栄作は、那覇空港で次のように声明文を読み上げた。</p>
<p>「沖縄が本土から分かれて20年、私たち国民は沖縄90万人の皆さんのことを片時たりとも忘れたことはありません。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦争が終わっていないことをよく承知しております」</p>
<p>しかし当時の情勢では、沖縄返還が実現する可能性はかなり低いように感じられた。</p>
<p>アメリカにとっては、朝鮮半島情勢のこともあり、沖縄は「極東の要石」とも位置づけられていたのだ。つまり、東アジアの戦略拠点とされていたわけである。</p>
<p>このように、誰もが不可能に思えた「早期の沖縄返還」を実現するべく、佐藤栄作は先の声明を出発点とし、その後粘り強くアメリカとの返還交渉を続けていったのである。もちろん、アメリカも簡単にはゆずらない。</p>
<p>「極東の安全をどう考えるのか！」1967年11月、ワシントンでの首脳会談で、当時のジョンソン大統領は、日本側にそう問いかけてきたという。当時の極東情勢については、ことに厳しかったことだろう。</p>
<p>それでも、佐藤はひるまず、国民の気持ちを率直に伝えることに徹したという。</p>
<p>「日本は日米安保条約を堅持し、防衛力を強化する。憲法上、軍事協力はできないが、経済協力の面で極東の安全に寄与したい」極東の安全については、そのように答えた。</p>
<p>このときの首脳会談で、ジョンソン大統領は沖縄の返還については明言を避けたが、小笠原の早期返還については合意がなされた。</p>
<p>さらに大統領は、沖縄の早期返還を求める日本国民の要望は充分理解しているとし、その返還についても、今後とも前向きに日米共同で検討していく用意があるとした。</p>
<p>一方の佐藤首相はその後も、返還された場合の「沖縄基地の態様」についても触れながら、あくまで「非核三原則」を貫きながら、アメリカとの返還交渉を続けていった、とされている。<br />
そして、1969年の11月、新しく就任したニクソン大統領との首脳会談のとき、それまでの4年にわたる努力が実り、ようやく沖縄が返還されることが正式に決まったのである。</p>
<p>（※ただし、このときの首脳会談では、有事の際には核の再持ち込みなどを事実上認める「密約」があったのではないかという、いわゆる「密約疑惑」も浮上している）</p>
<p>〔まさに「政治生命」を燃焼し尽くした一生〕</p>
<p>1901年、山口県の造り酒屋に生まれる。東京帝大法学部を卒業すると同時に、鉄道省（後の運輸省）に入省。地方勤務を経て、運輸次官となるが、その後片山内閣が総辞職した際、運輸次官を辞任する。</p>
<p>48年10月の第二次吉田内閣の発足に際して官房長官に任命される。翌49年1月、48歳のときの総選挙で衆院議員に初当選、同年2月の第三次吉田内閣の発足時には自由党の幹事長を任される。</p>
<p>その後、岸内閣のときは蔵相（58年）、池田内閣のときは通産相（61年）を務め、64年には首相に就任。佐藤内閣は7年8ヶ月に及ぶ長期政権となった。</p>
<p>そして、ノーベル賞受賞から半年経った1975年5月、74歳になった佐藤は文字通り、燃え尽きるようにして逝く。くも膜下出血だった。</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/05/103.html">「佐藤 栄作（1901～75）」（1974年 平和賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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	</item>
		<item>
		<title>「江崎 玲於奈（1925～）」（1973年 物理学賞）</title>
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		<pubDate>Fri, 17 Dec 2010 08:32:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル物理学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1925年大阪府生まれ。東京帝大理学部卒業。神戸工業、東京通信工業（現ソニー）などに勤務。60年に渡米、ＩＢＭワトソン研究所の主任研究員を務める。73年ノーベル物理学賞受賞。74年文化勲章受章。92年筑波大学学長。200 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/03/102.html">「江崎 玲於奈（1925～）」（1973年 物理学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1925年大阪府生まれ。東京帝大理学部卒業。神戸工業、東京通信工業（現ソニー）などに勤務。60年に渡米、ＩＢＭワトソン研究所の主任研究員を務める。73年ノーベル物理学賞受賞。74年文化勲章受章。92年筑波大学学長。2000年芝浦工業大学長。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（半導体内におけるトンネル現象とは？）</p>
<p>1957年の夏のこと、とある研究室で･･･「トンネルだ！」</p>
<p>研究室で電流計をのぞき込んでいた江崎は思わず、そう声をあげたという。</p>
<p>そして、それは、その後世界的に有名になる「エサキ・ダイオード」（トンネル・ダイオード）が誕生するキッカケとなった瞬間でもあった。<span id="more-102"></span></p>
<p>その日、ある特殊な手法によって、半導体（トランジスタ）の研究をしていた江崎玲於奈は、電圧を上げれば、それに応じて電流も増えるはずなのに、そうはならず、逆に電流が減少するという、奇妙な現象を目の当たりにしていたのだ。</p>
<p>だが、この奇妙な現象に思いあたる「言葉」があった。それが先ほどの「トンネル」という言葉である。</p>
<p>量子力学では、すでに「トンネル効果」という現象が知られていた。では、それはどんな効果なのだろうか？</p>
<p>「トンネル効果」を説明するために、よく引き合いに出されるのが、「壁を通り抜けてしまうという不思議なボール」の例である。</p>
<p>ふつうは、壁にボールを投げつけても、それがぶつかって跳ね返ってくるだけだが、この不思議なボールは、壁にぶつかると、壁の向こう側に染み出ていってしまうのである。それで、こうした現象は「トンネル効果」とか「トンネル現象」と呼ばれていたのだ。</p>
<p>もうお分かりかと思うが、この不思議なボールというのは、量子の世界における「電子」などの粒子のことを例えて言ったものである。電子には「粒子」としての性質のほかに、「波」としての性質があることは当時からすでに知られていたのである。</p>
<p>（ミクロの世界では、「超常茶飯事」？）</p>
<p>我々の（マクロの）世界でそんなことが起こったら、すぐにも「超常現象だ！」と大騒ぎになるが、実は「量子の（極微の）世界」では、そんなことが日常茶飯事に起こっているのである。</p>
<p>電子には「波」としての性質もあることから、壁をくぐり抜けるということも、さほど難しいことではないのだ。そして、こうしたトンネル効果は、半導体でも見られるはずであると予言されていたのである。</p>
<p>江崎が観測したのは、「負性抵抗」と呼ばれる「電圧を上げると電流が逆に減っていく現象」であり、これぞまさしく半導体における「トンネル効果」の現れであったのだ。</p>
<p>この特性はその後、高周波の発振や増幅、また高速のスイッチングなどに応用される道を開くことになる。</p>
<p>（トランジスタの生みの親ショックレー博士からも高い評価）</p>
<p>この研究内容は1957年10月に、日本物理学会にて初めて発表されたが、反響は全くといって無かったという。</p>
<p>そこで江崎は、もっとも権威のあるアメリカの物理専門誌『フィジカル・レヴュー』（1958年1月15日号）に投稿したところ、こんどは同じ分野の専門家からかなり注目されるようになった。</p>
<p>なかでも、トランジスタの生みの親であるショックレー博士にさえ、「これは素晴らしい！」と軽いショックを与えたことが、江崎氏の国内での評価を一挙に高めることにつながった。</p>
<p>そして、1973年にはこの業績、すなわち「半導体内におけるトンネル現象に関する実験的発見」により、ノーベル物理学賞が授賞されるに至ったのだ。</p>
<p>〔1957年夏の日の「発見」までの簡単な経緯〕</p>
<p>江崎玲於奈は1925年、大阪府の生まれ。1944年に東大入学。卒業後は、嵯峨根･東大教授（日本の物理学の父ともいわれる長岡半太郎氏〈大阪大学初代総長〉の子息）からの紹介で神戸工業に入社。</p>
<p>8年あまり勤めた後、東京通信工業（現ソニー）に転職。その2年後の1957年に、後のノーベル賞につながる現象を見つける。江崎が32歳のときだった。</p>
<p>「クイズこれだけは！」</p>
<p>１．電圧を上げると電流が逆に減っていく現象のことを何という？</p>
<p>２．江崎玲於奈が、1957年に見出した現象のことを何という？</p>
<p>３．トンネル現象を利用したダイオードは何と呼ばれているか？</p>
<p>４．江崎がトンネル現象についての論文を投稿したアメリカの物理専門誌の名前は？</p>
<p>５．トランジスタの生みの親である博士の名前は？</p>
<p>答え：１．負性抵抗、２．トンネル現象、３．トンネル・ダイオード（エサキ・ダイオード）、４．『フィジカル・レヴュー』、５．ショックレー（ウィリアム・ショックレー）</p>
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		<title>「川端 康成（1899～1972）」（1968年 文学賞）</title>
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		<pubDate>Thu, 16 Dec 2010 09:41:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>gluck</dc:creator>
				<category><![CDATA[ノーベル文学賞]]></category>
		<category><![CDATA[日本人受賞者]]></category>

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		<description><![CDATA[1899年大阪府生まれ。東京帝大国文科卒業。1921年（帝大在学中）発表の『招魂祭一景』が認められる。52年芸術院賞。61年文化勲章。68年ノーベル文学賞受賞。72年没（4月16日ガス自殺）。 代表作： 『伊豆の踊子』『 [...]<p><a href="http://nobel.arayax.com/04/100.html">「川端 康成（1899～1972）」（1968年 文学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>1899年大阪府生まれ。東京帝大国文科卒業。1921年（帝大在学中）発表の『招魂祭一景』が認められる。52年芸術院賞。61年文化勲章。68年ノーベル文学賞受賞。72年没（4月16日ガス自殺）。</p>
<p>代表作： 『伊豆の踊子』『雪国』『山の音』『千羽鶴』他。</p>
<p>【受賞理由となった業績や活動】</p>
<p>（1968年、日本人初のノーベル文学賞受賞）</p>
<p>1968年10月17日、川端康成は日本人初のノーベル文学賞を受賞した。</p>
<p>アジアでは2人目のノーベル文学賞受賞となった。1人目は、1913年受賞のインドの詩人・タゴール。それから、実に55年目となる、アジアでの文学賞受賞だったのだ。<span id="more-100"></span></p>
<p>当時、川端のノーベル文学賞を伝える外電は、その受賞理由を「氏の作品は、微細な感受性をもって日本人の心の神髄を表現した」と伝えている。</p>
<p>そして、スウェーデン・アカデミーのノーベル文学賞選考委員長であった、アンダーシュ・エステルリンク博士は、受賞理由として次のように述べていた。</p>
<p>「作家としての卓越した手法をもって、文化の道徳的、倫理的意識を表現し、それによって東洋と西洋との間に精神的な架橋をすることに貢献した」</p>
<p>（幼いころから近親者の死に接して…）</p>
<p>川端康成は、1899年6月14日、大阪市北区に生まれるが、その後立て続けに近親者の死に接することになる。</p>
<p>1歳7ヶ月のときに父が、そして2歳7ヶ月のときには母が亡くなっている。その後、祖父母に引き取られるが、尋常高等学校に入学した7歳のときには祖母が亡くなり、10歳のときには叔母の家に預けられていた姉が亡くなっている。</p>
<p>そして、ついに1914年には祖父も亡くなるのだが、その死が迫る日々の記録を『十六歳の日記』という作品に、さらに幼い頃からの近親者の死に接した体験を『葬式の名人』という作品に纏めている。</p>
<p>（激動の時代を生きた作家の横顔）</p>
<p>1917年に上京した川端は、20年には東京帝大の文学部に進学。本格的に文学を志そうと決めたのだ。『新思潮』に発表した「招魂祭一景」が認められたのは、川端がまだ帝大文学部に在学中の、1921年のことだった。</p>
<p>23年に雑誌『文藝春秋』を創刊した菊池寛は、川端を編集同人に加えており、その後、彼らは「新感覚派」と呼ばれるようになる。菊池は、さまざまな局面で川端に援助を与えたという。</p>
<p>終戦の後、川端は、無名の三島由紀夫を文壇に登場させるキッカケを作るなど、新人の発掘に熱心であったという。その後も川端と三島は親密な師弟関係を続けることになる。</p>
<p>また、キューバ危機が起こった1962年には、核兵器に反対し、世界平和を目指す「世界平和アピール七人委員会」に参加したり、67年には三島らとともに、中国文化大革命による芸術、学問の圧殺に抗議する声明を発表したりもしている。</p>
<p>このように、川端は社会に対して、さまざまな働きかけをした作家としても知られているのだ。</p>
<p>〔ノーベル文学賞受賞に必要不可欠な翻訳者の存在〕</p>
<p>ノーベル文学賞の受賞に必要不可欠であるのが、翻訳者の存在ということになる。</p>
<p>日本文学の作品が海外でも広く読まれるためには、それを海外に紹介する翻訳者がどうしても必要になってくる。</p>
<p>川端の作品の場合は、エドワード・Ｇ・サイデンステッカー（日本文学研究者）という翻訳者が、そのノーベル文学賞受賞に大きく貢献したと言われる。</p>
<p>1955年、アメリカの『アトランティック・マンスリー』という雑誌が、日本特集を組んだ際、『伊豆の踊子』の部分訳を載せたのが、彼が川端文学を紹介した最初だったという。</p>
<p>その後も、サイデンステッカーは、川端の作品の多くを英訳出版していった。</p>
<p>そして、そうした彼の翻訳活動が、やがては川端のノーベル文学賞受賞へと繋がっていくのであった。川端自身、氏が自分の作品の翻訳者であったことが、受賞にも大きくつながった、と語っていたようである。</p>
<p>サイデンステッカーは、川端のノーベル賞授賞式にも同行し、川端の記念講演である「美しい日本の私─その序説」の通訳まで担当したのだった。</p>
<p>「クイズこれだけは！」</p>
<p>次の設問に、「○か×か」で答えよ。</p>
<p>１．川端康成の代表作には、『伊豆の踊子』『雪国』『川の音』などがある。</p>
<p>２．川端は、幼少から立て続けに近親者の死に接していた。</p>
<p>３．アンダーシュ・エステルリンク博士は、川端文学の翻訳者であった。</p>
<p>４．川端は、アジアでは初のノーベル文学賞受賞となった。</p>
<p>５．川端の授賞理由は、『雪国』などで日本の美を表現したことにある。</p>
<p>答え：１．×、２．○、３．○、４．×、５．○</p>
<p><a href="http://nobel.arayax.com/04/100.html">「川端 康成（1899～1972）」（1968年 文学賞）</a> is a post from: <a href="http://nobel.arayax.com">エピソードで知るノーベル賞の世界</a></p>
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